カテゴリ:漫画とイラストの時間
(再編集2022年7月17日) 1964年-----------それはまだ私が高校生になったばかりの頃でした。 全国の少女達に素敵な印象を残して、我が熱愛の ”64年来日組” が、あの遥かかなたのウィ―ンに 帰ってしまったあとからもずっと、我々の、この若い純心な想いを乱そうとする、けしからん悪徳 " 少女雑誌社" が、卒業した団員達の写真やら現在の彼らの小さな記事やらを載せては、少女達にどんどんそれを買って読ませ、ファンの熱が冷めやらないようにと陰謀を次から次から企ててくれていました。 64年組の少年たちに近づくこともできなかった代わりに、ピンクのワンピースの級友と二人で、アウガルテン宮殿に64年組に会いに行くという素敵な夢物語を書いて幸せ気分になっていましたが、作り話 の中の私の夢想の悪友、かのハンサムでスリムなペーター君は、少女たちのアイドルだったワルター君と共に、もうこのように・・・・とほほ・・・。 すっかり成長してしまい、ちっとも餓鬼の範囲から抜け切れないアホでお転婆な私の手(背)の届かないカッコいいティーンエジャーになっていましたァ。 ・・・・・・ど、ど、ど~しよう~、みんな大人みたいになってる 💦・・・・ もらった切り抜きで見た、元ソリストのシャーリング君のジーンズ姿には、あまりにも自分とかけ離れた大人びた雰囲気が漂っていて、ショックの為に何だか悲しくなったのでした 。 こっちが子供のままでちっとも変っていないっていうのに~、小癪にも、アウガルテン宮殿の、あの憧れの素敵な少年達ばかりだけが、私をここに置き去りにして自分勝手にどんどん先へ行ってしまうのよ。 けれどウィーンの少年たちが話す言葉が、ローマ字のように簡単に読めると分かった為に、前にも増してドイツ語が好きになっていました 。 何しろドイツ語の楽譜だって、ローマ字式に発音すれば、面白いように読めるのですから、歌詩の意味など全く解らなくとも、もうウィーン少年合唱団の団員になったつもりで声に出して読んでいました。(ま、この年頃ならまだ許されるのです) ドイツ語の辞書を買う為には、3つ買うべきの給食のパンを一つ減らし、22円のフルーツ牛乳と15円のクリームパンと野菜パンを飽きずに毎日食べて来た。 私が貯金して買ったドイツ語の辞書は250円ぐらいでしたが、1971年のヨーロッパにはそれをもっていったのですよ。 72年組が帰った後もそれを使っていましたが、ボロボロになった辞書を見た事務所の友人が、自分が大学で使っていたというこの写真の辞書をくれました。 800円という文字が見えるでしょう。・・・・見えないか。 それも今ではこの通りボロボロで、もっぱら使うのはグーグルの翻訳機です。 はてさて、音楽などに興味がなかったのですが、ウィーン少年合唱団に影響されて部活ではコーラス部に入りました。 声が大きいので、初めは放送部に入っていたのですよね。 だから、たまにお昼の休み時間など、マイクの前でクリームパンをはっしと咥えながら持参のウィーン少年合唱団のレコードを掛け、校内放送で「 花咲く乙女達、美しき異性の歌声をみな聞けよ 」とばかりに、すべての教室いっぱいに少年のソプラノを響き渡らせておりました。 あぁ、一度も接したことが無かったフロシャウワ―隊の少年達なのに、自分勝手に貴公子に仕立て上げ、ひたすら熱い想いを馳せながら、夢のある屈託のない日々を送っていたんだっけ。 そんなある日、例の級友が少女雑誌から ”破いて” くれた合唱団の記事の中に、” 現在(つまり今は当時になっちゃう)の全合唱団員名簿 ”が載っていたのです。 これってウッソォ~ !! 破かれたそのページには、懐かしい64年組の団員達の他にも、カタカナで書かれた見知らぬ少年達の苗字と年齢がそれは沢山載っているのでした。 隊の指揮者の名前など頭になく、団員の名前だけが目に入っていた。 ほんとにこれが 全ウィーン少年合唱団員 の名前なの? 実はその何カ月か前に、級友が破いてくれた「女学生の友」のあるページを読んで、希望と期待に胸を踊らせる事があったんですよ そこには、コンサートの楽屋で知り合った来日ウィ―ン少年合唱団員と文通を始めた少女のお話が出ていたからです。 その記事のリンクです。ウィーン少63年の記事見っけ その時初めて、団員の誰かと知り合う為には「こういう手」もあったのか~と本当にびっくりし、あの遥かなるウィ―ンの少年達をほんの少しだけ身近に思えるようになっていました。← しかし”ウィ―ン” はそうは思ってないのじゃ~~~。 それまではウィーン少年合唱団のいるアウガルテン宮殿なんて恐れ多くて、住所なんてあるのかさえ思いつきませんでした。 けれどこの記事で断然勇気が湧いて、川崎で買った絵葉書に、団員とお友達になりたいですと英語で説明した文を書き、「 ウィ―ン少年合唱団・ オーストリア・ ヨーロッパ」と記して出しました。 何だか、ものすごい大仕事をやり終えた気分ですごく満足でいると、何週間かして、見事にウィ―ン少年合唱団の絵葉書でお返事が届きました。 団員からだと思い込んで辞書を引くと、そこにはタウチュニッヒ団長のサインで世界中から沢山のペンフレンドの申し込みがあるので、残念ですが団員との文通は不可能です・・・うんぬん(もう忘れました)と書かれてありました。 団長さんからの絵葉書はとても嬉しかったけれど、やっぱりウィ―ン少年合唱団は遠くて手の届かないところにいて、私はただ憧れるだけなんだと知らされ、するとウィーンが余計に恋しくなったのです。 すっかり諦めてピンクのワンピースのクラスメートと”64年組の作り話”に専念している最中に、このような現実のこんなに沢山の合唱団員の名前を知ったのです。 今まで霧の中にぼやけていた団員達が何だか見え出して来たようでした。 フロシャウワー隊の他にも団員たちがいるとは知っていたけれど、あの白い宮殿にはほ~んとにこんなにたくさんの団員がいるんだぁ~。 ヒェ~、まるでより取り見取りじゃん ←でも、だれからも相手にされないのに。 友人と二人で、大はしゃぎでいくつかの気に入った名前を模索しました。「今度また断られたら、私は本当に諦めるからね。」 そうして私が選んだのは、三年後の1967年の日本公演に来れそうな年令の (つまり一番年少の) 読んで一番かっこいい苗字の少年でした。 レコードを買おうと貯めたお金で、尻手駅前の本屋にあった一番安いドイツ語の辞書を買い、その辞書の最後のページにあった、「手紙と住所の書き方」を参考にして、まだ見ぬ その少年 に宛てて、何とか一通の短い手紙を書きあげました。 何と、はがきではなく、生れて初めて出す手紙がドイツ語です。←記憶にある限りの手紙らしい初めての手紙。 郵便局の窓口で「オーストラリアじゃないほうのウィ―ンです。」と言って、考えたら部分的な自分のアホさ加減に気が付いて大恥じかいた。(今は全面的にアホです。) どんな子かな どんな子にこの手紙が行くんだろう きっと届くよネ 私の願いと見知らぬウィーンの少年への憧れは何の根拠もないのに大きく膨らんでいきました。 💕 お詫び:コメントを入れる時、何度も数字の打ち直しを要求されるのですが、スパム予防の為だと思います。 貴方の失敗ではないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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