カテゴリ:青春時代の欧州旅行
2023年9月3日に行ったクラーゲンフルトのお話の前に順番としてまずドレスデンです。
(初公開2013年7月ー再編集2023年9月26日) これは記事92からの続きです。 申し訳ありませんが少年達の期待には答えられません. いくら何でも700年もの伝統のある少年合唱団の前で素人が歌えるかって! 「僕達は日本の歌を聞いた事がないんです」 そうなんです。 その頃の東ドイツは日本と国交がありませんでした。ソ連の管理下に置かれて、学校では英語の代わりにロシア語の授業でした。ソ連の敵対国のアメリカとの良好な国交のある日本はここではそれほど知られていなかったのですよ。だから、日本の女の子なんて言うと日本に興味など持っていなかった少年達の頭の中にはこんな画のイメージがあったみたいです。 ギャ~、冗談でしょ~ 多分ポズナンの時と同様に、東洋の女の子を見るのは初めて、なんていう少年もいたんでしょうね。それにしても音楽家の彼らは未知の日本の曲への興味でうずうずしている様子です。と、言われたって、この優秀な少年達の前で、何の楽器の支援も無いのに………それに、さっきの食事だってあんなにまずかったし………、いくらなんでも歌えるはずがないですよぉ・・で、何度も、何度も断りました けれど日本的な断り方が軟いのか少年達は年長からチビコロまでが、あのハシュパピーのお願いの眼つきで口をとんがらかして 「ビッテ、ビッテ(お願い、お願い)」のドイツ的シュプレヒコールをしながら絶対引き下がらないのですよ~。 こいつら、なんかニヤついてるし本当は内心ではおもしろがってる。この眼つきはもう、絶対面白がってる。さては東ドイツのドレスデンに生息する㊙サディスト少年合唱団だったのか。仮面がはがれたぞ ぐわぁ~ 「ねぇ、ポン子、”さくら”のアルト覚えてる?」 「・・・覚えてるけど・・・えっ、ウッソォ~! なに、やるっていうの?!」 何でこういう有名な合唱団の団員ってやつらは変に感が良いんだろう。たった一言の“アルト”の言葉だけで私達の会話が判ったみたい。彼らはさっきより更にムンムンし出して、目がキラキラからぎらぎらに変わった! 「そ、そんな、みんなで凝視したら歌えっこないでしょ。 」 ↑と言ったつもりなのです。すると誰か小さい男の子がこっちに向かってキンキン声で言いました。 「でも僕達が歌う時はみんなに見られてるよ。」 あれぇ~、私に話す時はザクセン訛りじゃないじゃん、差別してる~。←ばか 「ポン子、目を閉じてって言ってよ。 みんなが目を閉じれば歌ってあげるって訳してよ。 私達も目を閉じれば歌えるわよ。 日本にいると思えばいいんだから。」 と言う事で、覚悟を決めた友人と私は自分達に試練の鞭を振い、この上なく素直で純粋な㊙サディスト少年合唱団のみんなに眼をしっかりと閉じてもらいました。緊張でガシガシに固まりながら安全確保の監視の為に、私達だけ目を開けたまま、初めに二人で音程を小声でモゾモゾと合わせました。他の団員達はお利口さんに眼だけでなく口もしっかり閉じて待っています。←耳も 大丈夫だよね、この子達、なんか信用出来そうだよね。よぉ~し、さぁ、目をつむって、私達は今、誰もいない会社の屋上にいるのよ。そして声を合わせると二人で ゆっくりと ”さくら ” を歌い出しました。 「さぁ~くぅ~らぁ~」 おっ、良い声出るよ、それにけっこう音響がイケてます。 「さぁ~くぅ~らぁ~」 ウッソォ~、きもちいい~!ドレスデンに対抗するウィ―ン少年合唱団の二重唱みたいです。←うそ 「やぁ~よぉ~いぃ~のぉ~」なんだか、本当に私達がここにたった二人だけしかいない様な気分です。 「そぉ~らぁ~わぁ~」あんまり気持ちよく声が通るので、ふと一瞬うす目を開けてしまいました。すると、何人かの男の子が笑みを見せて目をつむっていなかったのです。 「みぃ~わぁ~たぁ~すぅ~」え、なに? その中の一人が私に指でそっと”内緒の形”を取りました。 「かぁ~ぎぃ~りぃ~」何でよ! ちゃんと聞いてないんじゃないかぁ 「かぁ~すぅ~みぃ~かぁ~」私は歌いながら焦りを覚えてきます。ヒィ~ 「くぅ~もぉ~かぁ~」その少年は目をつむっている横の少年達に肘で合図を送りました。 「にぃ~おぉ~いぃ~ぞぉ~」私は歌に神経を集中し続けながらただそれを見るだけです 「いぃ~ずぅ~るぅ~」」まるで待っていたかのようにその少年達は眼を開いてこちらに目を向けます。 「いぃ~ざぁ~やぁ~」約束が違うじゃないか、目を開けたら歌えないってば 「いぃ~ざぁ~やぁ~みぃ~にぃ~ゆぅ~かぁ~ん~・・・ そうやって、歌い終わった時には大半の団員が眼を開けていてスタンディングオべーションを送ってくれていました。スタンディングオべーションですからね、しかし、演奏会の時のそれと違ってここのスタンディングオべーションは観客がにこやかに握手をしながら、ダンケ(有難う)だのシェーン(よかった)だのと言って、そのまま部屋から出て行く事でした。・・・・アンコール、なしだじょ ・・・ 「有難う、君達は上手く歌えるね。」 「学校でコーラス部に入っていたの、知っていたでしょ。」 「でも、聞くまではどんな声か判らなかったから。」 結局ドイツで700歳の少年合唱団は若い私達の日本の歌に感謝はしたものの、自分達の美声には他に太刀打ち出来る者は無いと再確認したようでした。 ペンフレンドの彼はそのあと、私達に寄宿舎の中を案内してくれました。が、先ほどの興奮が冷めやらなかったのか、何をどう見たのか覚えていません。そうこうするうちに合唱練習の時間が来たので音楽室に向かいました。 部屋の前には先ほど一緒だった年少の団員達が立ち並んでいます。 「前と変わっていないな。 年長者はいつもだらしなく時間を守らないんだ。」 そう言っているうちに、その年長の少年達もだらりだらりと集まって来ました。何だか、そんな現実を見ると舞台での彼らはどうなのかと思ってしまいます。(もちろん私達はこの合唱団の演奏会など一度も見た事はありませんでした。)けれど、音楽室に入ると態度も顔つきも変わり、練習時間で彼らの合唱を聞けた事はこの上なき幸いでした。もう~、私達の歌など、天と地の差でした。 オ~、恥じかシィ~ もう、想像してみて下さい、こんな少年達に囲まれて歌ったところを (エルベ川が氾濫して河原までこんなに水が上がっていた時期の動画です) 素敵な合唱の練習を終わりまで鑑賞させてもらった後、私達は市電でドレスデンに戻り、ツヴィンガーと言う名のバロックの建物を見学しました。(写真は借り物です) ツヴィンガーと聞いた時は「猛獣の檻」と訳してしまい、王冠の門をくぐって中に入ってから、どこが猛獣の檻なのかが気になって仕方ありませんでした。なぜなら彼はツヴィンガーと言うだけで宮殿だとは説明してくれなかったのです。更に何処を見ても煤けて黒いので、本当に昔は獣の檻だったのかと思いました。ところが中庭を抜けて「女神達の泉」と言う小庭に出たとたん、グワ~ンと衝撃。 小さな滝のあるこんな素敵な場所がひっそりと宮殿の片隅に隠れているとは。周りに立つ半裸の美しい女神達もこんなに近くで見るのは初めてでした。写真でも見たことがなかったこんな風景は生まれて初めてだったので有頂天になりました。 その洞窟のような階段を上がると回廊のような上のテラスに出ます。私は洞穴のような階段が気に入って何度も上がっては下り、下りては上がりで、その度に砂岩の壁をなすったので、しまいには手のひらが真っ黒に汚れました。ツヴィンガー宮殿の画廊では私の好きなラファエルの油絵にも会えました!いつか美術の時間で見た事のあるシスティーナの聖母像です。 「僕は子供の頃、この下の左の方の 天使になりたかったんだよ。」 「え~、でも、幸せそうに見えない。」 「何故か判らないんだけれど僕にはこの天使がうらやましかったな。」 まぁ、人それぞれですからね。 宮殿の中庭には舞台の用意がしてあって、バレーの練習が行われていました。 若くて綺麗なバレリーナが男性に支えられて飛びあがるのですが、上に持ち上げられるとキャーっと叫んで笑いこけてしまうのです。何度やっても同じなのです。多分くすぐったがり屋なのかもしれませんが、笑い声が響いて楽しそうでした。ありゃ~、まだバレー学校の生徒だったのかもしれません。 ここで買ったお土産は質の悪い紙に印刷された色のあせたツヴィンガー宮殿の組み立て図でした。線に沿って自分で切って、貼り付けて宮殿の形に組み立てて行くのです。残念ながら私が買ったツヴィンガー宮殿の紙模型の画は見つかりませんでしたがこんな感じだと思ってください。 細かい作業が大好きな私にはこの安いお土産はとても嬉しいものでした。翌日はチェコスロバキアの国境に近い崖の上に建つ城を見学します。そこはザクセンのスイスと呼ばれている砂岩山地の国立公園です。彼の姉夫婦がそこに住んでいるので自動車で案内してもらう事になりました。おっと、その前にクロイツ教会合唱団の歌うミサがあります。私達はミサの様子が見下ろせる2階の席にすわりました。ポズナンの時のように祭壇の前で言っている事は何が何だか判りませんが雰囲気は同じです。そして・・・・合唱・・・あぁ・・・ここでもポズナンの時の様な総毛立つ感激を味わいました。 ミサの後では何人かの団員達が私のペンフレンドの所に集まってまたおしゃべりが始まりました。彼は明日、ロストックに帰ります。そして私達は彼と反対方向のウィ―ンへと旅立って行きます。父のお土産に蜂蜜を探しているのを知った団員達があちこちのお店を見てくれましたが結局見つからないで戻って来ました。 「蜂蜜さえ見つからないって いうのが東ドイツなのさ。」 きっとこの写真の少年達も今はいいおじさん連中になっているのでしょうね。後右端の金髪の少年は人なつこくてピーマンの料理を勧めてくれてからずっと私達にくっつきまわっていましたっけ。 午後からはドレスデンから列車に乗って彼の姉夫婦を訪ねました。ケーニヒシュタインという崖の上の城塞のあるエルベ河畔の街です。 東ドイツに来てからはや6日目です。いろんな事を経験し、いよいよ私達がドレスデンを発つ日が来ました。私のペンフレンドはクロイツ教会の前で何人かの団員達と待ち合わせをしていたらしく、記念写真を撮った後、何故かみんなでそろって都電に乗り込みました。どうやらドレスデンの駅まで見送る予定なのかもしれません。都電の中での彼らの立派で紳士的な態度からは、あの寄宿舎での練習前のふてくされたようなだらだらはとても想像できません。でも、これが舞台での彼らの顔なんだ、と彼らのコンサートでの緊張感を垣間見た気がしました。日本と国交のない国の、この人達にまた会える日が来るのだろうか、そんなメランコリックな気持ちになりながら団員達に見送られてウィ―ン行きの列車に乗り込みました。 ポズナンの路上でパスポートを無造作に出した時に、ヴォイテクのお母様があわてて「取られたらどうするの。偽造してここから出たい人は沢山いるのよ。」と言った時、そして東ベルリンでロシア軍のトラックが兵隊を沢山乗せて私達の脇を通った時に、彼らが身を乗り出してこちらを見たので、それに手を振った時、真っ青な顔になってあわててそれを止めたペンフレンドを見た時、私達には想像もつかないような彼らの抑圧された日常を感じました。ポーランドでも東ドイツでも、私達は自由の国からやってきて、さ~っと若い彼らの上澄みだけに触れて、将来もそこに固定され続ける彼らをそのまま残して、また自由の国に旅立ってゆくのです。チロルやスイスにも行く予定だと聞いた時の、彼らの見せた羨ましそうな表情は私達の肩身を狭くしました。資本国家の雰囲気をまき散らしながら、本当は此処に来るべきでは無かったのかもしれないと、自分達のエゴを恥ずかしく思いました。どちらの国の人達もみんな親切で素敵な思い出をたくさんくれました。けれど共産国の不自由なまどろっこさもそれ以上に身にしみる経験をしました。私達の無責任さは、そんな国を後にし、日本と同じ自由な国に向かっている時、肩の荷を下ろした気分になった事で証明された様なものでした。これを読み返しながら、1989年に東ドイツが解放され、ポーランドが民主共和制国家になって、その誰もが世界を自由に行き来出来るようになった事が嬉しくて仕方ありません。ロストックもベルリンもポズナンもドレスデンもすっかり生まれ変わりました。そこではもう誰も声を潜めて話す人はいず、大きな笑い声があふれています。鳥肌が立つほど嬉しくてしかたありません。 この続きは104に(←クリック)飛びます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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