カテゴリ:青春時代の欧州旅行
(初公開2013年9月20日ー再編集2024年1月) これは記事97(←クリック)からの続きです。 1971年5月中旬 ドレスデン聖十字架少年合唱団の見送りの青年たちと別れを告げ、神学生のペンフレンドはロストックへ、私達はウィーンへと向かいます。 列車がドレスデンの駅を出ると、エルベ川が見えて来ました。 この広い川に掛かる鉄橋を渡ると、直に左の川向うにはあの圧倒されるような断崖の景色が見えてきます。 列車はザクセンのスイスと呼ばれている国立公園の真っただ中を走っているのです。 昨日はペンフレンドが、姉夫婦の住むケーニヒシュタインという煤けた街にある、断崖の上の、いかにもつまらない石だらけの古いお城を案内してくれました。 そうそう、その時ケーニヒシュタインの駅に向かう電車の中で、彼は向こう岸のすごい崖の間に掛かる石橋を差しました。 「バスタイというところだよ。ザクセンスイスの名所の一つなんだ」 そう説明してくれましたが、ラーデボイルへの帰り道ではその反対に 「あそこはなんて言う所か覚えているかい」と聞きます。 私はすぐに「バスタイでしょ」と答えましたが、彼は驚いて目を丸くしました。 「へ~、君は頭が良いんだね。ちゃんと覚えていたじゃないか」 実は頭が良いんじゃないのです。なぜなら、「バスタイ」と聞いた時、ただ単にボケ~っと「お風呂場に貼ってあるタイル」を想像していただけなのですから。 私は東ドイツに滞在していた間、ウィ―ンに連絡するのをすっかり怠っていました。 なにしろ、朝から晩まで引っ張り回されてメタメタに疲れてしまっていたのです。 今の私だったらそんな言い訳は通りませんでしたね。やはり無責任なノーテンキだった。 まして慣れないドイツ語での会話も、学校の集中授業よりも徹底していました。それもザクセン訛りのドイツ語なら更にです。私の神学生のペンフレンドの賢明さにも、ポン子式の油断の余地はありませんでした。私は先の事を考える余裕などない程参っていました。だからサ、ちびチャン達を相手にしていたほうが気が楽だっていうんですよ~。しかし・・・・・・・・・・ドレスデン聖十字架少年合唱団はそのチビでさえ私より賢明そうな印象を発揮していました。 ケーニヒシュタインの駅を過ぎると、じきにカッコいい制服姿の二人の若い東ドイツのパス検査官が現われました。(制服を着ると皆カッコよく見える) いよいよチェコスロバキアの国境が近づいて来たからなのです。(はい、当時はまだチェコとスロバキアが一つでした。) 青年達は私達のパスポートの中身と私達を見比べ、そこまでは良いのですが、二人で頭を突き合わせては写真を見てニヤニヤ、私達を見て、ニヤニヤ。 ザクセン訛りを丸出しにして何やら怪しげにこそこそと話しています。 「なんだよ、薄気味悪い。文句があるなら言え」・・と言いたかったのですが、その時はまだ全然、今のポン子になっていなかったので、内心ではガフガフわめきながらも、お利口さんにムスッと黙って様子を伺っていました。それはチェコスロバキアに入ってからその国境を出る時も同じ様な感じでした。 同行の友人はウィ―ンのペンフレンドの為の、綺麗に包んだ大きな日本のカレンダーを抱えていましたが、検査官がどうしても見せろと言って後にひきません。 どう見たって怪しい包みには見えないので、ただ単に彼らの個人的な興味本位にしか思えませんでした。 けれど、相手は警察官みたいなものです。 友人は二人の検査官にぷりぷりしながらも、りぼんをほどいて包装紙を開けると、もう思いっきり勢い良く、片手でパッと中身を空中に広げました。 美しく咲いた満開の薄いピンク色の桜と、鮮やかな赤い五重の塔と白い雪を頂いた富士山のカレンダーが彼らの目の前に広がりました。 この2週間ずっと灰色の建物を見て来た眼には艶やかでハッとする色彩でした。 日本だよ~ これが私達の国なんだよ~、美しいさくらの故郷だよ~ 二人の検察官は6枚綴りのこのカレンダーを1枚1枚めくってはじっくりと楽しんだ後、にっこりと笑って何事も無かったかのように前の車両に進んで行きました。怒ったのは友人で、ブツブツ文句を言いながら皺になってしまった包装紙でカレンダーを包み直していましたっけ。 国境警察とはいえ、この若者達も日本からのお客が珍しかったのかも・・・・。 チェコを過ぎるといよいよオーストリアに入ります。 グミュントと言う国境の街が私達にとって初めてのオーストリアです。 けれど、別に驚くような景色の変化も無いまま、太ったおじさん検査官によってパスポートに入国のスタンプが押されました。 あと何時間かでウィ―ンに着いてしまうというのに、私達は列車に揺られながら何か気が抜けた気分でした。 ポーランドであんなに楽しい時間を過ごし、東ドイツであんなに充実した時間を過ごし、全く思いも寄らなかった心温まる歓迎を受けて、もう一度あそこに戻って行きたいと思う気持ちが強くなっていたからです。 私達はウィ―ンに向かう列車の中で、すでに帰り道の事を考え、絶対にポズナンに立ち寄ってあの家族を驚かせるという計画に執着していました。 二人であの古いアパートの大きなこげ茶のドアの前に立って、そのドアが開いてあの家族が喜びに目を輝かせてくれる姿を想像しました。 「ねぇ、白くて素敵な花束を用意しようね。」 「うん、オーストリアで何か美味しそうなものを買っていこうよ」 勿論食べ物のお土産を口に出したのは私でした。 自分のペンフレンドに遅れの連絡をしなかった私は一体何を考えていたのでしょう。さて、同行の友人はおバカな私と違って、ポズナンで変更になった4日間の到着遅れの知らせを、東ドイツにいた間に前もってウィーンのペンフレンドに送っていたのです。なので私達がウィ―ンに着いた時、駅にはちゃんと彼女のペンフレンドがお父様と一緒に車で出迎えて待っていました。友人はずっと以前から67、69年来日組の元ウィ―ン少年合唱団員だったココのお宅に招待されていたからです。 軽薄だった私の事情を聞いた彼らは、まずは自宅に帰ってから手を打とうと言う事で、大きな重い二つのトランクと軽くて小さな私達はすぐに車に押し込められました。 何と私の現金な友は彼に会ったとたん、ポズナンの事は忘れてしまったようでした。彼女の大柄なペンフレンドとは私も日本で知り合っていましたが、彼はちょうどコックになる為の専門学校に通っていて、目下ある有名なホテルのレストランで実習をしているところだと楽しそうに話してくれました。 彼がその晩、自ら私達の為に用意してくれるのは・・・何だろう。 ラジオから日本でも人気のあるサイモン&ガーファンクルの歌が流れています。 彼がいるキッチンから、忙しく動き回る音と共に良い香りが漂って来ました。そして間もなく私達の座る居間のテーブルに運ばれて来た白い大きなお皿の上には ・・・美味しそうだけど、何だか日本のとは違うトンカツだなぁ その無言の質問に答えるかのようにコックの卵クンは自慢げに言いました。 「君達の為に僕が腕を奮ってヴィーナーシュニッツェルを用意したんだよ」 え~、ドイツ語の授業で習った事のある”ヴィーナーシュニッツェル” それこそ生れて初めて見る本場のウィ―ンでの ”ヴィーナーシュニッツェル”です。 それも最近までウィ―ン少年合唱団員だった少年の手で、心をこめて本格的に料理された“仔牛の ヴィーナーシュニッツェル” ウッソォ~、ウッソォ~、ウッソォ~って言いながら カシャカシャアグアグいただきました。 美味しかったぁ~ お腹も空いていたけれど、あんなに美味しいヴィーナーシュニッツェルを食べたのは今以って記憶にありませんなァ。←仔牛肉なんて高級なものはめったに喰わん。実際、神戸肉もフグの刺身も食べたことがないまま渡欧しています。 仔牛のヒレ肉は鳥の胸肉のように淡い色で、それを叩いて薄く伸ばします。それに塩コショーして小麦粉をまぶし、卵にくぐらして、きめの細かいパン粉をつけて、バターラード(バターを煮溶かし、あくを取ったもの)をたっぷり入れたフライパンでパリッときつね色に揚げます。 空腹で凹んでいたお腹がパンパンになって←今では空腹時でもパンパンですが 何だかホンワカ気分になっているところに”ジー”っと玄関のベルが鳴りました。 私も友人も誰だろうと顔を見合せます。 入って来たのは何と69年来日組のジェフ少年こと、フリッツ・シーマークでした。彼とは品川の高輪プリンスホテルで何となく知り合いになり(←クリック)、手紙の交換がありました。ウィーンで会う約束をしたので、ココが気を利かせて私達が食事をしている間にフリッツの御家族に連絡を取ってくれていたのです。 彼のお父様はご病気で会えませんでしたが、お母様が娘と息子を連れて私を迎えに来てくれたのでした。 コックの卵のココと長髪になったフリッツは再会の固い握手で親しい挨拶を交わします。日本で会った時の二人は年長だったとは言えまだ気安く近づけた子供達でした。 けれどウィ―ンで会うこの二人はすっかり成長して青年の(あのドレスデンのムンムン年長組の) 雰囲気が漂っています。もうあの時みたいに、半分ふざけた会話なんて出来なくなっています。 何でみんなそうやってどんどん成長しちゃうんだろうね~。64年組が日本から帰国してその冬に少女雑誌が変声したペーターやワルターの写真を投稿していましたが、すっかり立派に成長した姿を目にしてショックを受けたことを思い出しました。 ドレスデンにペンフレンドが出来た後、初めてのぺンフレンドのナイダー隊のウサギちゃんに紹介されたフロシャウワー隊のハラルドの他、私にはウィ―ンにもう一人女の子の文通の友が出来ていました。 ウィ―ンに来たら来て下さいと言われていた女子高校生のマリアです。 そのマリアの家族にもすでに連絡が取れていて、シーマーク親子は夜のウィーンをあちこちドライヴしてくれた後、私を彼女の家に連れて行ってくれました。 車の中では前に座ったフリッツがいやにはしゃいで調子に乗っていて、振り返ってはものすごい早口で説明をしてくれますが何を言っているのかさっぱりわかりません。 ただ、彼は調子に乗りすぎて、母親に何度も膝を叩かれては制され、その度に変声時のしゃがれた大きな笑い声を立てていました。 何処をどう走っているのかぜんぜん解りませんでしたが夜のウィ―ンは素敵でした。 昨日までに通り過ぎて来た悲しいそして愛しい二つの国の雰囲気とは雲泥の差です。 ひっそりとした石畳の路地にその旧式のアパートは建っていました。 肩身が狭い事に、このマリア一家は4日前にウィ―ンの駅で私達の到着をむなしく待っていてくれたのでした。 私の恐縮をよそに、マリアは遠い日本の訪問客に大喜びしてくれました。 そして居心地の良さそうな東側の小さな部屋が私の為に用意されていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この記事へのコメント Yuka 2013年9月8日 11:38 待ちに待ったウィーン編、さてブログでは何が起こるのでしょうか。 今の時代であれば、メル友(?)に会いに行くとなれば、お互いに相当親交を深めていたとしても警戒心を持ちながらのご対面となり、その後も猜疑心を拭い去る事の出来ないままのお付き合いになったかもしれません。 見知らぬ人、それも言葉も文化も違う外国にまで一途に会いに行けた時は本当に良い時代だったと思います。 今だから言えることかもしれませんが、その時代に戻れたら、ponkoさまのように、いいえ、それ以上に沢山のペンフレンドを作り、会いに行き、結婚しますよ。 (^o^) ponko310 2013年9月8日 17:33 メル友・・・・言ってくださいましたねぇ。 Yukaさんのその何行かがどんなに私の頭脳に響いた事か・・・。 お互いに名前も知らず、住所も知らない・・・ブログのコメントみたいですよね。 もっと驚いたのはフェイスブックです。 あれは一体なんですか?500人以上もの友人がいるとか? まだメル友の方が人間的な気がします。 Yukaさん、そのメル友でも自分の気持ちと人を選べば結婚にまで到達できると思いません? ついでにプップクンも前夫もペンフレンドではありませんでした。 Yuka 2013年9月8日 22:07 ご返信ありがとうございます。 私の方こそコメントと言う言葉が頭脳に響きました。 実は以前ponkoさまと同時代と思われるWSKのパル(と言われていたらしい)をされていた方のブログを幾つか読んだことがあり、こういう青春の一時期の過ごし方もあったのだと気が付かされ、知らなかった素敵な世界を感じていました。 その後、ponkoさまのブログに出逢って、それと同じ匂いがしたことから親近感を持ち(一方的に)コメントさせていただくことになったのです。 ponkoさま、もしお差支えなければですが、ペンフレンドを超えての現前ご主人との出会いなど、いつの日かponko節でお聞かせくださいませ。大分前にもコメントしましたが、何を聞いても驚きませんよ~。ではまた。 ponko310 2013年9月9日 00:34 Yukaさん、私もその素敵なブログを読んでみたいです。リンクを送ってくださったら嬉しいのですが。 パルとういう言葉は初めてです。私達の時代はペンパルと言って文通の相手でしたが、そこから来た名称なのですかね。 Teddy 2013年9月9日 01:38 Ponkoさま、お忙しい中の更新ありがとうございます。 心ときめかしながら楽しく読ませていただきました☆ いよいよウィーン、やっぱり何だか嬉しいです(笑い) 当時は急に旅の予定が変わっても、離れた相手側に連絡を取るというのは大変だったのでしょうね。 列車で国境を超えるというのもヨーロッパならではですね(★^o^★) 今はシェンゲン協定で簡単に国境を通過できますが、当時はその度にチェックを受けられたのですね。沢山のスタンプが押されたパスポート、良い記念になりますね。 元団員が作ったヴィーナーシュニッツェルだなんて、感激ですね(*>ω<*) 続きをお待ちしています(笑) Ponko310 2013年9月9日 5:50 Teddyさん 国境を超える楽しみが今は無くなってしまいました。ドイツからいつの間にかフランスに入っていたりして。 そう、昔は直ぐに通じる携帯なんて無かったので連絡するのも大変でした。 Teddyさんも豚のフィレ肉でヴィ―ナーシュニッツェルはいかがですか?仔牛肉は高いので豚肉が一般化していて、ウィーン風シュニッツェルで通っています。 2016年2月15日: 追記 このコックの卵だったココは現在ルカの様に故郷を出て外国で生活をしています。 ウィーンでコックの資格を取り、ホテルのレストランで修業を積んだ後、豪華クルーズのレストランで料理をしながら5年間も世界を周ったそうです。 その中にはもちろん2ヶ月程日本への寄港もあったのですがその間、昔のファンの誰かに会いましたかって聞いてみると、残念ながらそれは無かったそうです。 今はカナダに落ち着いて、緑に囲まれたある大きな高級施設での貫禄あるコック総長になっています。 自分の選んだ道を貫き通して、仕事が大好きな、幸せな人生を送っている元団員の一人です。 私の次男と同い年の息子さんがいますが、彼もウィーン少年合唱団に入っていたそうですよ。 多分、1990年当たりから1994年くらいまでの団員になるんだわ。 61年に来日したランク隊にもお兄さんが歌っていました。 日本での公演の思い出はまだ楽しく記憶に留めてあるそう。 でも、ウィーン少年合唱団での生活自体の事はあまり楽しくなかったようです。 「シレンジウム(静かに)!とかの言葉はまるで軍隊だったな。」 あァ、シレンジウム・・・その言葉は私も聞いて知ってますよ。 でも、その規律があの素晴らしい合唱を生み出してくれた事知ってた? 私は今でも、見習いコックの彼が作ってくれた熱々のヴィーナーシュニッツェルがこの世で最高の味だったと思っているんです。 「覚えているよ、あれは僕が見習い1年目の時だったんです。」 maa 2016年2月21日 21:46 こんなところに失礼します。 2016年2月21日からやって来ました。タイムワープみたいです。 コレッコ君のウィンナーシュニッツェルさぞおいしかったことでしょう。仔牛の肉なんて、紀伊国屋スーパーにでも行かないと手に入らない。 昔自分で作ったことあります。青山まで材料を買いに行きました。一枚いくらだったかしら?肉たたきで薄くのして、お皿ぐらいにでっかくなってしまいました。 自分の選んだ道で人生を歩んだコレッコ君に幸あれ。 ponko310 2016年2月21日 23:11 maaさ~ん、此処にはタイムワープもタイムスリップも無いんですよ。 だって、再編集してばっかりですもの。新しいコメントが嬉しいです。 コックの道はとても厳しいので、ここでも途中で道を変える人は多くいます。そんな中、着実に自分の道を歩き切ってコック総長になったココを賞賛します。彼は今、日本の味が大好きで昨日はバスマティーライスに鳥胸肉の照り焼きがメニューに入ったのですって。ブロッコリーの付け合わせだそうです。 maaさんのウィンナーシュニッツェルをコレッコ君に鑑定してもらいたかったです(笑) 2024年2月2日 他の場所にあった思い出日記を7年近く経ってからこのブログに持って来ました。筆を加えながら当時の光景がまた甦ります。2013年のコメントにはまだekさんは現れていませんでした。彼女が今これを読んだらどんな言葉を掛けてきてくれるかしら。 2016年にはルカの名前が出てきて思わず顔がほころびました。ある意味では私の命の恩人でした。 💕 お詫び:コメントを入れる時、何度も数字の打ち直しを要求されるのですが、スパム予防の為だと思います。貴方の失敗ではないのでどうぞお気を悪くなさいませんように。それでもコメントをくださる方には心から感謝したします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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