カテゴリ:ノスタルジアの時間
2024年9月15日 日曜日
目下ヨーロッパの一部が100年に一度の大雨に見舞われています。私の住むところも明日から雨になるとか(16日 月曜日、雨模様になってきています)・・・でもドレスデンの様な大洪水になるような川は無いので心配はしていません。少し風が強くなっていますが、今は我が家の周りは素晴らしいお天気です。 ダスティーの口に合わなかった餌を池の魚にあげて、残りはカササギが食べにくるかと思ったら大型のズキンガラスが来てしまいました。 ところでウィーンではこの大雨のせいで西駅からの電車は決行、リンツに出向く予定だったゲオルクさんは嘆いています。そしてホーフブルク礼拝堂では停電が起こったので今日のミサはお流れですってさ。外国からこのミサに参列を目的に来た方達には何ともお気の毒様でした。そういえば当時、ドナウ川の近くに住んでいたうさぎちゃんが1965年にドナウが氾濫した時の写真を送ってくれていましたっけ。でもこれは100年前じゃないしね。 彼のパパが4階の部屋から撮った写真だったそうです。 ファンの方達はこの氾濫でビュヒラー君の家が浸水して、来日した時のアルバムを失ったとかの当時のうわさを聞きませんでしたか? つい先日までこちらは昔の日本の夏を思わせる猛暑だったのに、オーストリアの友人の所では暖炉を入れたそうです。私は夏掛けから羽布団に替えました。 熟したブドウは私とグラッツィーとで摘まみ終わったので殆ど残っていません。いよいよドイツの本来の気候が戻って来たかな~。 2024年9月17日 普段のウィーン川が昨日はこんなに水量が増えていました。今日は水かさが減ってきているそうです。 今回、また消えたウェブリから一つここに引っ張ってきました。
むか~しむかし、ず~っと昔の事でした。←お休み前のお話調 私はまだ幼くて、横浜の高台に住む老いた叔母夫婦の家に、かなりしばらくの間預けられていた頃がありました。 大きな黒人や白人の軍隊関係のアメリカ人がまだたくさん横浜に住んでいて、お隣の若くて美人な娘さんはその一人と結婚して近くの小さな家に住んでいました。 アメリカナイズされてひょろっとしたお隣の小母さんと私のぷっくり太った叔母は大変仲の良い友達で、厚い板壁の押し入れが仕切り役を受け持っている古い木造平屋の二世帯用住宅のお隣さん同士でした。 お隣の小母さんはバッパと言う名前で呼ばれ、ちっとも訪ねて来ない娘の代わりに私をポっ子と呼んで、それこそほんとうにとても可愛がってくれたので、自分の叔母さんよりも、もっとずっと自分に近いおばさんだと思っていました。 そんなある日、窓を震わせる北風のゴーゴーと吹く晩がありました。私はそのうなる風の音が怖くて、布団を被ってトラ猫のたまをしっかりと抱いていました。たまの喉を鳴らす優しい音と体に伝わってくる軽い振動が小さな胸に安心感を与えてくれるのでした。 その翌日、バッパが蒼白な表情で、表にいた叔母に聞いて来ました。 「なんでポっ子をあんなに泣かせておいたの」 私は泣いてもいなかったし、叔母もそれを聞いてびっくりです。 とても不気味な話でしたが、多分風の立てた音が子供の泣き声の様に聞こえたのではないかという結論が出ました。 心配で眠れなかったというバッパの言葉に、幼いながらも嬉しくて、ここではほんのりとした愛という暖かさに包まれている安堵感を覚えていました。 叔母の家には何冊ものグリム童話の大きな絵本がありました。その本の名も「キンダ―ブーフ」とか「メルヘンブーフ」と、今思えばドイツ語の名前でした。 (写真はイメージです) 押し入れの中にしゃがみ込んで板壁をコンコンと叩くのは楽しそうでしたが、でも、それは子供のしてはいけない事の様な気がして私はやりませんでした。 バッパが来ると、伯母はお茶を入れ、台所の古い戸棚からおしんこを出して近所の噂話を始めます。けれど、いつも何か新しい事があるわけではないので、二人がたまに黙ると、辺りはしーんと静まりかえって、コチコチという時計の音だけが聞こえてきます。私には少しの間のその静けさがとても心地よく、いつまでもこの二人と一緒に暮らしていたいと心から思っていました。 伯母の家がある高台からはかなり急配な坂道が下りていて、その途中に小さな銭湯がありました。 (この写真はイメージです) 伯母と一緒にそこに行くのは大抵まだ明るい昼間の空いている時間です。桶のたてる小さな音も大きく響き渡るお風呂には、黒いお湯の大きな湯船と薄緑色のお湯の小さな湯船がありました。窓から入る太陽の当たった小さな湯船の底は、まるでお椀の底の様に丸く曲がって見え、それがいつも薄緑にゆらゆらと揺れていました。 お湯は私には熱過ぎて、壁際の蛇口をひねって自分の前に冷たい水を出すと、伯母があわてて止めに来るのですが、その場所のお湯はもう熱くはなくなっていて、お湯の中の私の足は薄緑色のタイルの上で一緒にゆらゆら揺れて見えるのでした。 伯母夫婦の家のお便所は玄関の横にあって、樟脳の香りがしていました。床もまわりも黒光りのする板造りで、私の目の高さからは白壁でした。 しゃがむと目の前には擦りガラスの小さな長い明かり取りの引き窓がありました。 昼間はそのガラスが白く輝いて明るいのですが、陽が沈むと淡い灰色に変わって、向こう側にある夜の暗闇を思わせて何だかとっても心細くなるのでした。 陽の当たる縁側のついた廊下の前には灌木の植わった小さな庭があって、その前の石ころ道には細い木の電信柱が立っていました。そこで灯る電灯は薄暗くて、夜には決して表に出たくはないのでした。
反対の日の当らない北側の部屋からはずっと遠くに港の灯台の灯が見えて、下方にある木々や屋根を越えながら時々ボーっという重苦しい船の汽笛が聞こえると、その音がとても寂しそうだったのでいつも何だか悲しい思いになりました。 それはバッパが歌ってくれた「赤い靴」のせいで、船の気笛が聞こえると、異人さんに連れ去られてしまった可哀相な女の子の事を思い出したのです。そして、その子が青い目になってしまった事を思うととても怖かったのです。 母の背中には”ねんねこ”にくるまれた私の知らない赤ん坊がおぶさっていて、それは生れて8か月の私の弟だったのです。(実際には弟が生れた後、しばらくは家族で叔母の家に住んでいたのでしたが記憶にはありませんでした) 頭の右にリボンを付けて、私はどこかに出掛けるような気分のまま、母に手を引かれながらバスに乗り電車に乗りました。下りた駅から随分歩き、着いた所は見た事もない全く知らない場所でした。 その狭い路地の両側には小さな平屋が何軒か建っていて、母は私が手を放すと一人でその一番奥の家に入って行きました。 聞き慣れたカラスやスズメや他の鳥のさえずりの代わりに、父と隣家の工場の機械が不快な音をたてているのが聞こえていました。 私がいまだかって覚えているのは、夕暮れの薄暗い灯りの中で古い木製の門の敷居にまたがって「おうちにかえりたいよ~」と言いながらひっくひっく泣いていたことでした。 これから何が待っているのかわからず、あの時の沼の底に引きずり込まれるような、どうしようもない不安と寂しさと狼狽が混じった感覚は小さなトラウマとなって、ずっと後日にまた出て来る事になります。 バッパの綺麗な娘は私が4歳ぐらいになった頃に女の赤ちゃんを産んで、自分はしばらく夫と二人だけでアメリカに行くために子供を母親に預けました。 私はその頃、幼稚園に入れられましたが、一人で勝手に家に帰って来てしまうような問題児だったようです。 みんなでお遊戯をしていても、一人で叫びながら真ん中に出て来て飛び跳ねていたそうです。 ある時、両親が私をまた叔母の家に預けた事がありましたが、多分幼稚園から締め出しを食らったのかもしれませんね。私は大好きなあの高台の家に戻ったことが嬉しくて仕方ありませんでしたが、いくら待ってもバッパがちっとも顔を出してくれないので、叔母にも告げずに隣へ行きました。 玄関に立つ私を見たバッパはとても喜んですぐさま家の中へ招き入れてくれました。北側の畳の部屋に座って、出されたジュースを飲みながらバッパにお話を始めようとすると、バッパは指を口に当てて小声で私に言いました。 「リリーちゃんが隣で寝ているから静かにしてね。」 ・・・・だれ? リリーちゃんってだれのこと? 私はバッパが孫のお守りをしている事も、リリーちゃんがバッパの孫である事も知らされていませんでしたから、その赤ん坊が突然現れた私の弟の様に、自分の存在を周りから失くしてしまう生き物のように感じてしまうのでした。そして、大好きで仕方なかったバッパが、自分よりもその赤ん坊の方をずっと好きになってしまった事がとてつもなく悲しくて、静かにと言われたので声を忍ばせて泣きながら隣の叔母の家に戻って来ました。 心痛を抱き、すすり泣いて戻って来た私は叔母に何も説明が出来ませんでした。たった4歳の子供がどうやってそんな複雑な心の状況を巧みな言葉で説明できましょうか。 どうやら、その頃に伯母とバッパの仲は冷え込みの時期に入っていたらしく、叔母はバッパが私に意地悪でもしたのかと思い込んだのかもしれませんでした。バッパは何も悪くないのに、私が泣きながら帰って理由も言わないせいで、普段は優しい目をした叔母が隣を睨むような顔つきをしたのが心に痛く焼き付いています。叔母にそういう顔をさせてしまった自分が、何か悪い事をした様な気になりました。 その後、父母も工場の仕事で忙しくなり、叔母の家に連れて行ってもらう事も稀になりましたが、その度に邪魔になるからバッパの家には行かないようにと告げられました。 それでもお隣で何度か、綺麗なフレヤ―のスカートの日本人でない顔の可愛い女の子を見ましたが、お互いに声を掛け合う事はありませんでした。 小学五年になって弟と二人だけで叔母を訪ねた頃には、その女の子がアメリカに行ってしまったと聞いても、私はバッパの家に遊びに行く事はなくなっていました。 叔母の雑然とした台所は私のお気に入りでした。戸棚を開けると、いつも沢山のお皿やお茶碗が入り乱れて重ねてあります。 それが私の手で綺麗に並べ替えられて充分な空きが出来ると、窓際のドンブリも納められて、古い台所が明るくなって大きな仕事を終えた満足感がありました。 でも、次に行くとその度に戸棚の中は雑然さが戻っているのでした。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 私が就職すると、叔母は続いていた二軒屋から自分の家を取り壊して、念願のお風呂の付いた二階建の小さな家に建て替えたのです。 ある日、私が仕事から戻ると、母が突然聞きました。 「お前、叔母さんが養女に欲しいそうだけど、行くかい?」 私は躊躇せず断りました。あの二軒続きの懐かしい家も、大好きなバッパも、ずっと昔の思い出だけになってしまった横浜の高台は、そこに輝く新しい家が微笑み掛けたとしても、自分の姓を変えてそこに収まるだけの魅力はありませんでした。 2024年9月16日、ここでこれを再編集しながら、あの時断ったことを決して後悔してはいないと思いました。 あの赤い靴の女の子はまだ幼かった故に自分の意志も問われずにアメリカ人に貰われて行ったのでしょう。 あの時、もし素直に叔母の養女になっていたらこの人生は違う方向に進んでいたかもしれません。 あの高台から見えた灯台の灯りと聞こえて来た船の汽笛は未だに私の心の隅に場所を占めています。そして今、ブランデンブルクの四季の移り変わりを見る度に、あの高台から見えた和やかな景色を感じます。 ここにいて運命の不思議を考える自分がいます。
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