カテゴリ:どうあっても歴史に残る事
2024年10月3日 ドイツ統一の記念日
今年の統一記念祭は旧東独圏のメクレンブルク・フォアポンメルン州の州都、シュヴェリンで行われています。 下の写真は1990年、まだ壁のあったベルリンのブランデンブルク門での市民による歓喜の騒ぎでした。 この日、東西のドイツが統一されてから、今日ですでにもう34年も経ったのです。時の過ぎる事の何と早いものか。 第二次世界大戦が終わった1945年、無条件降伏を拒絶した日本が原爆を落とされる原因となるポツダム宣言でしたが、もしそのポツダム会談の時点で中国の毛沢東が参加していたとしたら、日本も北と南に分離されていたかもしれないと聞いたことがありました。このドイツのように東京を挟んで二つに別れた日本など、空恐ろしい想像です!今の韓国と北朝鮮ですよ。ウクライナにもイスラエルにも早いところ平和が戻ってこない訳には、第三次世界大戦の驚異がじわじわとこちらに近づいて来そうではありませんか~。更に空恐ろしい想像です。 私が西ベルリンに来たのは東ドイツがまだしっかりと存在していた1975年ですから、その14年後にあの厳しい共産主義政権の壁が崩壊するなど思いもよりませんでした。高さが3メートル以上もあるその壁は一部の隙間なく、そっくりと西ベルリン全体を囲っていたのです。 日本からドイツに来て、まだ住むところが無かった私達はアパートが見つかるまで西ベルリンの南にある前夫の実家に老いた叔父、叔母二人と一緒に住んでいました。 戦後、ポーランドのシレジアからロシア軍に追われて逃げた来たドイツの避難民の為に、国が自家栽培用の大きな土地と二軒続きの家を用意したのですが、その様な集落はまだ残っていて、今の私達の街の隅にもあります。 私の住んでいたのは西ベルリンと東ドイツのブランデンブルク州の国境のすぐそばで、黒星の歩いてほんの何分かで灰色のベルリンの壁にぶち当たった場所でした。 ベルリンの壁はこのように街の中心を仕切ってあり、右はソ連軍が支配し、左は米国、仏国、英国の3軍が守ってくれていました。今私達が住んでいるのはベルリンの北にある緑の星の場所です。好んで壁の近くに住んでいたわけではないのですが、青の星の所は私がパンを作って売ったり(←クリック)、宣伝の絵を描いたりでかなり意気込んで暮らした思い出の深い場所です。 さて、このベルリンがどこにあるのか知らない日本人が案外多いのですが、れっきとした 東ドイツ(1949年~1990年)の首都 だったのですよ(今はドイツ国の首都)。その壁は共産主義の組織に反抗して自由に生きたいと願う東ドイツ人が、世界への出口である西ベルリンに脱出しないようにしっかりと造られたものでした。西ベルリンに脱出した東独の人は車でも列車でもベルリンから出る事は出来ず、ただ飛行機のみが西への移動手段でした。そういえばライニーさんが団員だった頃、西ベルリンへの演奏旅行がありましたが、バスの運転手が東独からの脱出者だった為に国境で運転手の交換があったことが旅行報告に書いてありましたよ。 その壁に面して、こちら側には木で作られた簡単な物見台が立っていて、そこに登ると壁の向こうの景色が見られるようになっていました。 私が此処に来て初めて見た向こう側の景色は、目前の見渡しのよい砂地と、そこから遠くまで広がるブランデンブルク州の林や畑ばかり。砂地のあるのは逃亡者を見えやすくする為だそうでした。 私の経験した壁と物見台は正にこれそのものでしたね。そしてこの壁沿いの道をパトカーが毎日、二度見回りに走っていたのです。前夫のおばさんのヒラから聞いたお話ですが、或る晩、窓の木扉を叩く音がしたので怪しみながら表に出ると、汚物でドロドロに汚れた男が窓の下にうずくまっていたそうです。すぐに警察を呼んで調べると、近くの壁をよじ登って東ドイツからの脱出に成功してきた人だとわかりました。 そういう事があってからパトカーの見回りが始まったそうでした。 物見台に立って遠くを眺めながら、日本から遊びに来た二人の友人達は怒りの感情を高めていましたっけ。 「あの壁を越えて飛んで行く鳥達はあんなに自由なのにねぇ。何でこんな壁に囲まれたベルリンなんかに住んでいるの?」 「別にこんなところに好きで住んでいるわけじゃないさ。結婚した相手が此処の生まれだったから仕方ないのさ。」 その友人達とよく上がったその物見台の目の前には、東ドイツの国境警備隊の監視塔があって、窓の向こうから双眼鏡でこちらを覗いているのが良く分かりました。 そこにいるのはみんな若い兵隊達ばかりで、西側の物見台に立って見ている人物達が珍しい東洋の若い女の子だと判ると、その双眼鏡が幾つも増えたものでした。 それがわかってからは、どこの物見台に上がっても私達は必ずそちらに向かって愛想良く、これ見よがしににこやかに手を振りました。 でも、向こうからは決して一度も挨拶は戻って来ませんでした。なぜならば東ドイツ人は、この壁を隔てて西ドイツ人や外国人に挨拶や話しかける事を、罰金を以って厳しく禁じられていたからです。ましてや壁を監視する兵隊達はその掟を固く、固く守っていました。 ・・・でも、どうだったんだろう。 兵隊がもし、そこに唯一人で立っていたとしたら、笑顔で手を振る私達に手を振って挨拶を返してくれたような気がするのです。実はねぇ、ウフフ・・・東ドイツで唯一の西への列車と接触のある東ベルリンのフリードリヒシュトラーセの駅で、私達3人は実際にそれを体験してしまったんですよ。 あれは私の二人の友人が来た1975年の夏の事でした。 この駅で乗り換えをした時に、此処の白い矢印の場所に沢山の若い警備兵達が立っていました。それは東独の住人が西への逃亡を防ぐための監視だったのですが、日本から来たばかりの私達にとっては怖いながらも余りにも珍しい光景だったのでかなり近くの下まで眺めに行きました。写真など撮る事は禁じられていたので見上げるだけでしたが、上からもこちらを眺めている青年達がいたので、軽薄な私共はいつもの如くにこやかに、そして愛らしく手を振ったのです。 すると・・・・何人もの警備兵たちが手を振り返してくれました。 きゃははは~、でもその振り方なのがですよ、20世紀のウィーン少年合唱団の舞台姿のように後ろ手にして凛々しく立っていた青年兵達は、合唱団の少年達とは違い、その腕をほんの少し前に動かして、横にいる仲間に判らないように、ズボンのポケット当たりの高さで手の平だけコチョコチョッと。自分達は仲間の誰が手を振っているのかわからなくても、下から見上げているこっちにはちゃんと誰だかわかっていたのだものね。・・・おもしろかったなァ。 (老齢の今ではね、面白いと言うより、いじらしいって思うんですけれど。) なんか、話が壁から逸れてしまいましたね。 実際、ベルリンの壁の意味がなくなった日は1989年の11月9日でした。 私の母の誕生日は11月10日でした。そしてその日には必ず電話で誕生日の祝辞を伝えていました。まだドイツには夏時間も冬時間も無い時代で、日本とドイツの時差は8時間になっていました。私が受話器を取ったのは22時を過ぎていましたが、日本ではすでに11月10日の6時です。 「もしもし、お母さん。 お誕生日おめでとう。」 母「おや、おまえ、こっちでも全国で大騒ぎして祝ってるよ。」 「は?・・・なんで国中でお母さんの誕生日を祝ってるのよ。」 母「何を言ってるんだい、ベルリンの壁が崩壊したってニュースで大騒ぎしてるよ」 「うっそだ~い。そんなことあるわけないわよ。」 母「おまえ、テレビのニュースを見ていなのかい。」 「8時のニュースは見たけどそんな事言ってなかったわよ。」 母「じゃ、電話なんか良いから、早くテレビを付けなさい。」 ・・・・・と言う事で、電話を切ってテレビを付けました。 カチャカチャ・・・ドラマばっかりじゃん・・・あ、何かやってる。 その画面にはアナウンサーがたった一人で立っていました。 そして当たりは真っ暗・・・・・シ~~~~~~~~ン。 アナウンサーは「まだ誰も来ていません。」と言っています。 いったい何なのよ・・・・面白くない・・・この人、壁が開いたなんて言ってないよ。と、その時向こうのかなたから何か影が・・・・・。 その影が色を添えて段々・・・・・近づいて来ます。近づくにつれて、それがしっかりと寄り添った老夫婦だと判りました。身を小さく屈めて、不安そうにゆっくりとゆっくりとこちらにやって来ます。 アナウンサーは待ちきれなくなって彼らに近づくとマイクを向けました。 そのマイクに気が付かなかったのか、御婦人の方がアナウンサーのほうに「此処はどこですか」と震える声で聞いたのです。 そして、「此処は西ベルリンです。貴方は今、西ベルリンに立っています。」という言葉を聞くと、二人とも抱き合って、「本当なんだ、私達は西に来たんですね。」と言いながらしのび泣きを始めました。 私はそれを見ながら後頭部がジーンときましたが、東の年金生活者が1年に1度、西への訪問を許されていると知っていたので、それで来れたのかとも思いました。 その御夫婦はそのまま暗い夜道に消えて行きましたが、期待を込めて待っている画面にはその後しばらくたっても何も起こりません。 気が付くと時間も随分遅くなっていたので、私はそのままテレビを消して立ち上がると、しびれた足を引きずって寝に行きました。 お母さん、ボケたのかなぁ~・・・・・・と思いながら。 そしてあと30分待っていたら、あの検問所の素晴らしい歓喜の場面が見られたことなども予期せずに。 でも、翌日の大騒ぎは自然と耳に入って来ました。 『東欧民主化革命の混乱の中、1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内および世界向けに放送された生放送での記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する[4]。しかし、混乱の中、ドイツ社会主義統一党書記長(当時)エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボフスキーは一知半解のまま「11月10日からの旅行許可に関する出国規制緩和」だったのを「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまうさらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、政令の発効期日を伝えられていなかったシャボフスキー[5]は政令に書かれていた「直ちに発効する」「遅滞なく」という文言に従い「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です。」と発言してしまった。』←ヴィキペディアより こういう早とちりは大いにウェルカムですなぁ~。この人のお陰でベルリンの壁の崩壊が決定的になったようなものじゃないですか。 朝食の支度をしながらラジオを付けるともうそのニュースばかり。あわててテレビを付けて、そのままかじりつきました。そしてはっと気が付いて、ビデオの用意をしました。こんな事が起こるなんてうっそ~もいいとこです。 そして夕方になると壁の近くに住む我が家にまで素晴らしい歓声が聞こえて来ました。その大通り(一番下の☆印)は西ベルリンのゴミ収集車によって、東ドイツの不要物回収所への往復だけに使われていました。けれど、壁の崩壊を聞いた東ドイツの住民は、出入りを禁止されているそこからも西にやって来たのです。 夕飯もそこそこにして私達もあわててその通りに向かいました。そこには嬉しそうな顔でハンドルを握るトラバントの列が長く続いています。そして西ベルリンの住民達がそれを囲んで大騒ぎしている所でした。 私達もその中に混じって、トラバントの圧縮ボール紙の屋根をバンバンと叩きました。皆はいつの間にかそれに夢中になっていたのです。 「皆さん、あなた方は今東ドイツの領域に侵入しています。 直ちに西にお戻り下さい! 直ちに西にお戻り下さい!」 東の国境警察のマイクからその忠告が流れた時は誰もが大笑いしながら皆してぞろぞろと戻りました。昨日までは夢にも考えられなかった事が起きていたのです。 撮ったビデオにもありますが、翌日の10日は金曜日であったにもかかわらず、ランドセルを背負った東ベルリンの子供たちまで西ベルリンに来ていました。 その子達へのインタビューで、学校は休みかと聞かれて「だって先生が誰も来ていないんだよ」の答えには腹を抱えて笑いながら、嬉しくて涙が出ました。 私の大っ嫌いだったベルリンの壁が本当に無くなるのだと思いました。 此処まで来たらもう、撤回できないよ~、っと大声で叫んではね廻りました。 そして今は、ウクライナとイスラエルの方達がこのような至極の喜びと平和の日を迎える時を祈っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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