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東方見雲録

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2024.09.25
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カテゴリ:郷土


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島根県教育庁古代文化センターは4日、月山富田城(同県安来市広瀬町)の城下町の遺跡で発掘された金属製の遺物のうち、4点が石見銀山(同県大田市)産や伯州銀山(鳥取県日南町)産などの銀を使った貨幣「切銀(きりぎん)」と推定されると発表した。全国の発掘調査で切銀が見つかったのは3例目。複数の切銀が見つかったのは初めて。当時の銀貨製造や流通の様子、統治の状況などを知る手掛かりになるという。

 切銀は高価な品物を取引する際に、品物の価値に見合うだけの銀を切って使ったもの。見つかったのは、戦国時代(16世紀後半)から江戸時代初期(1666年)にかけての切銀とみられる。

 月山富田城の麓にある富田川河床遺跡で1980~82年度に行った発掘調査で見つかった遺物を、2021年度以降にエックス線分析装置を使うなどして詳細に再調査した。このうち1点は、含有元素や見つかった状況などから石見銀山の銀が使われている可能性が高いことが分かった。伯州銀山産とみられる切銀も2点あった。

 同センターの広江耕史特任研究員は「切銀が発掘調査で見つかると年代を絞ることができ、当時の状況を知ることができる。切銀が発掘調査で見つかった例が少なく、今後の同種の調査が進展するきっかけになれば」と話した。

 見つかった切銀は、古代出雲歴史博物館(出雲市大社町)で10月11日~12月8日に開催される企画展で紹介される。(井川広志)
引用サイト:日本海新聞  こちら

関連サイト:FNN  こちら












引用サイト:島根県  こちら

伯州銀山(日野銀山)
大倉山の南西山麓に存在した“日野銀山”。日南町内では“石見銀山”と呼ばれています。かつて、日野銀山調査会がおこなった調査結果をもとに故・矢田貝喜好(やたがい・きよし)さん(中石見)がまとめられた記録を中心に紹介します。

日野銀山のおこり
鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が日野郡で銀山を開いて、その経営にあたったことを示す書状が残っている。文禄4年(1595)4月の、秀吉が亀井茲矩にあてた朱印状である。それには、西伯耆国の日野山で銀を発見したことを賞し、早く掘って有る限り運上せよ、と記されている。

わずか1年で…
当時、この地は吉川広家(ひろいえ)領に属していたため、安國寺恵瓊(あんこくじえけい)が伯州銀山の採掘・経営権が広家に与えられるよう秀吉に要請したという。これにより、文禄5年9月付の秀吉の広家あての朱印状で、伯州日野の銀山の経営権を広家に与え、銀ができ次第運上せよと命じている。したがって、茲矩に与えられた経営権が、翌年には広家に移されたことになる。

銀山の隆盛
間歩(まぶ=坑道掘)は、中石見から上石見にかけて約3kmの間に、試掘2坑を含めて8坑の跡が確認されている。産出された銀は「伯州灰吹(はいふき)銀」として知られ、旧坑は元禄時代まで約百年間採掘が続けられたが、その後産出がなく、廃坑になったという。
銀山の盛んな頃、町坂といわれる道すじは「町坂千軒」と伝えられ、宝暦時代に石畳道に改修したことを示す石碑も残っており、その隆盛がしのばれる。
引用サイト:日南町  こちら
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亀井玆矩とは
亀井?矩公 1557(弘治3)年出雲の湯ノ庄(玉湯町)で生まれ、尼子の家臣湯左衛門尉永綱を父とし湯新十郎と名乗ります。1572(元亀3)年まで旧臣の家で養われ、同年末に出雲を去って因幡の山宮(気高町)の井村覚兵衛の所に身を寄せました。翌天正元年夏尼子勝久・山中幸盛らの因幡進攻を知り、桐山城(岩美町)に幸盛を訪ねて、これ以後は幸盛とともに戦います。天正2年2月若桜谷の矢部行綱を討ち、4月中旬幸盛の養女時子(亀井能登守秀綱の二女・幸盛の妻の妹)を妻にして亀井の家を継ぎます。茲矩の諱は初め之子また眞矩といい、字は長卿です。


日野の銀山と鉄穴流し
 1595(文禄4)年卯月(4月)3日付の豊臣秀吉の朱印状があります。これには、西伯耆の日野の山で銀山を発見したことをほめて、早く掘り出して差し出すよう命じています。(『亀井文書』国立歴史民俗博物館蔵) この日野銀山の経営は翌文禄5年には西伯耆3郡の領主吉川広家に移されています。
 また、領内でも河内(鹿野町)に鳩林山という金山があったといわれていますが、はっきりしたことは分かりません。「…因幡の国鹿野河内鳩林山は、初めて金銀湧出した所である。末代まで富貴のもとになる、日本第一の宝の山である。予子孫繁昌之国…」と記された亀井茲矩の願文が『亀井文書』(国立歴史民俗博物館蔵)にあります。
 また「鉄流しの流し口はどれだけできたのか、どれほど採取できるのか…」と1594(文禄3)年3月14日国元の多胡宗治右衛門に宛てた長郷(茲矩)の手紙があります。さらに「国元では砂鉄流しの場所を見立てて掘らせているので…」という栗町新右衛門に宛てた2月4日の手紙もありますが、亀井武蔵守茲矩の署名から天正13年以降と考えられます。これらは亀井家の『家記稿本』の「鹿毛筆の跡」に載せられています。このように亀井領では鉄穴流しを行って砂鉄を採取していたことが分かります。
引用サイト:亀井茲矩公没後400年  こちら

関連日記:2024.09.19の日記 月山富田城  こちら
関連日記:2024.02.10の日記 日野川流域のたたら  こちら
関連日記:2024.08.10の日記 若松クロム鉱山  こちら
関連日記:2023.11.17の日記 石見銀山  こちら
関連日記:2023.12.04の日記 石見銀山ライブラリー  こちら

関連サイト:企画展「山陰の戦乱-月山富田城の時代-」 古代出雲歴史博物館  こちら

富田城図(部分)
江戸時代・文久3年(1863)/安来市・城安寺蔵





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Last updated  2024.09.25 16:05:39
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