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マキのつぶやき マキ9171さん
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◎ カブトムシ観察日… プリン(^△^).さん
2012年08月11日
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亜細亜東部輿地図 in 1875
日本の陸軍参謀局は1875年に『亜細亜東部輿地図』を作製した。この図には昔竹島(もしくは磯竹島)と呼ばれていた島が松島という島名で書かれ、この松島(鬱陵島)と朝鮮半島の間に存在しない島が竹島という島名で書かれている。その一方、鬱陵島と隠岐の間にあるはずのリアンクール島(現竹島)は描かれていないのが分かる。同年11月、同局が朝鮮八道全図、大清一統輿図、及び英米が刊行した測量海図などを基に『朝鮮全図』を作成し、『同図』は後年、農商務省図書館にも所蔵された。

朝鮮東海岸図 in 1876
海軍水路寮が1876年に発刊した『朝鮮東海岸図』はロシア海軍が作成した図が基になっている。この図には「オリウツ礁」「メコライ礁」というロシア名で、竹島を成す2つの主島、西島・東島が書かれている。

内務省の通達 in 1877
左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されている。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の"外一島"を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる積極的な証拠は無い。同年文部省が発刊した『日本全図』には現在の竹島はなく、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)があるのみである。文部省のみならず2年前に陸軍参謀局が調査した図にも、アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)の記載があるのみなので、「外一島」が現在の竹島でないのは明白である。

この資料は国立公文書館に所蔵してある日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件で、下記はその文章である。
明治十年三月廿日

別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也
御指令按
伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

資料:竹島(鬱陵島)および外一島の放棄
資料:公文録 内務省之部(磯竹島略図含む)

軍艦「天城」の調査 in 1880
日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。もし西欧の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、我々は現在も竹島を松島と呼んでいただろう事は想像に難くない。(この調査後、外務省書記官の北澤正誠が竹島考証(上)(中)(下)を著した。

大日本府県分轄図 in 1881
一方で内務省地理局が1881年に作成した『大日本府県分轄図』の「大日本全国略図」に現在の竹島は描かれていない。また「島根・鳥取・岡山三県」の行政図にも竹島が描かれていない。海軍と内務省の情報交換が上手くいっていなかったと推測できる。

朝鮮国全図 in 1882
内務省地理局が明治15年に作成した『朝鮮国全図』には、鬱陵島が朝鮮の東限として描かれている。

鬱陵島へ渡航上陸禁止 in 1883
1881年、朝鮮は長らく実施していた鬱陵島に対する無人島政策を放棄した。同年朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求した。日本政府外務省は、すでに松島開拓問題(1876年)で鬱陵島を朝鮮領と認めていた。そして日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻した。このことは後年記録された『明治二十三年往復簿 一 内閣記録局』にも記載されている。鬱陵島への渡航禁止が出されたこの1883年には、3年前の調査が『水路雑誌』に纏められた。

寰瀛水路誌 in 1886
日本の海軍省は1883年『寰瀛水路誌(かんえいすいろし)』を発刊した。同水路誌は1889年に編纂が中断されるまで発刊。1886年3月に発刊された『寰瀛水路誌 大日本沿海北西部 第一巻下』に「隠岐全島」の記述があるが、竹島は全く載っていない。同年12月に発刊した『寰瀛水路誌 第二巻第二版 韓露沿岸』には鬱陵島と共に「リアンコールト列島」の名前で竹島の記述がある。

大日本水産会報告 in 1887
1887年に発刊された『大日本水産報告』の第65号では隠岐の漁業活動についての報告がある。冒頭に隠岐の島々の説明がなされているが、竹島に関する言及はない。韓国側はこれをもって竹島は日本領ではないと主張するが、これはあくまでも漁業活動についての報告である。

日本本州九州及四国附朝鮮 in 1891
日本海軍が作成した『日本本州九州及四国附朝鮮』には、竹島がリアンコールト岩として記載されている。

朝鮮水路誌 in 1894
日本海軍の水路部が刊行した1894年版の『朝鮮水路誌』に、朝鮮領の東限が鬱陵島であることを示す記述がある。同書は第一編から第四編の4つのセクションに分かれており、朝鮮領の東限は第一編、鬱陵島とリアンコールトは第四編に記述がある。韓国側は、朝鮮の南の限界はこの『朝鮮水路誌』では北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになる。従って『朝鮮水路誌』をもって竹島は日本領であるという主張は成り立たないという。しかし日本と国境がある東限と、その先には何も無い南限を同列に扱ってはならない。『朝鮮水路誌』は厳然と竹島を韓国領ではないと定めているのである。また、この年に鬱陵島附近を描いた代表的な図を下記に掲示する。
『朝鮮全図』 柴田源三郎によって発行。鬱陵島の直ぐ東側に于山島がある。
『新選 朝鮮国全図』 松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。
『朝鮮輿地図』 清水常太郎著。松島(鬱陵島)と半島との間に竹島(アルゴノート島)が記載されている。
『新撰朝鮮地理誌』 大田才次郎著。記述に「竹島、鬱陵島、于山島」とあるが附属図を見るとこの竹島はアルゴノート島である。
『朝鮮全図』 東京地学協会が編纂。5つの図の中で最も正確に描かれている。この朝鮮全図は鬱陵島までしか描かれていない。
『山陰新聞』 1894年1月14日の記事。この当時、山陰地方は正確に鬱陵島を竹島と称していたことが分かる。
『山陰新聞』 1894年2月18日の記事。「(鬱陵島は)周辺海岸は断崖として港湾に乏しく只だ東南に一小港あるのみ」「(鬱陵島民は)常に耕作を専業とす、漁業は絶て従事するものなく全く知らざるものの如し」の2つの文章から、この当時竹島(リャンコ島)を認識している島民は皆無だったことが伺える。

朝鮮全岸 in 1896
海軍水路部が発刊した『朝鮮全岸』には鬱陵島の東南に「リアンコールド岩」という名称で竹島が記載されている。これをもとに韓国は日本も独島を韓国領として認識してた証拠であるとしているが、これは領土権とは関係のない海図である。海図であるからこそ、『朝鮮全岸』というタイトルでありながら日本領である対馬などが記載されている。

河合利喜太郎著 亜細亜東部輿地図 in 1898
1898年に河合利喜太郎によって『亜細亜東部輿地図』が作成された。これは陸軍参謀局が1875年に作成した『亜細亜東部輿地図』と同じ系譜の図である。松島(鬱陵)と書かれた東側に竹島と書かれているが、経緯度が正確ではないのが分かる。

朝鮮開化史 in 1901
1901年1月に恒屋盛服によって著された『朝鮮開化史』の江原道鬱陵島の欄に、于山島、松島、竹島の3つの島名が出てくるが、これらは鬱陵島のことであると推測される。

外務省通商局編纂 通商彙纂 in 1902
1902年10月16日発刊された外務省通商局編纂『通商彙纂』第234号には、同月10日付けの釜山駐在日本領事館の本国への報告書のなかで、「韓国鬱陵島事情」と題して竹島に関する報告をしている。

韓海通漁指針 in 1903年1月
葛生修吉(くずうしゅうきち)が著した『韓海通漁指針』は、大韓帝国の漁業規則や漁業組合、沿海地理などの漁業に関する書籍である。江原道の節に鬱陵島の記述があるのは当然だが、竹島にも言及している。これを基に韓国は、日本は竹島が韓国江原道に属していたと認識していた証拠だと主張している。しかしこの書籍は領土を扱ったものではなく、漁業に関するものである。鬱陵島の記述の次に竹島のことが言及してあっても何ら不思議はない。むしろこの資料は日本にとって有利に働いている。韓国は1900年に出した勅令第41号のなかにある「石島」が、後に発音の都合から「独島」になったと言っているが、1902年前後には韓国人もヤンコ島と言っているとの記述があるからである。

小藤文次郎著 朝鮮全図 in 1903年4月
20世紀初頭に書かれた朝鮮の図に小藤文次郎が書いた『朝鮮全図』がある。この朝鮮全図には鬱陵島が描かれているが、現在の竹島は描かれていない。

中井養三郎の領土編入願い in 1904
1903年5月、隠岐島に住む中井養三郎が竹島でアシカ漁を始めた。だが、領有権が明確でないために他国とのトラブルなど、不測の事態を招く恐れがあった。間もなく過当競争による乱獲の弊害も出始めた。中井によると、1904年には山口県の岩崎という人物らが鬱陵島の朝鮮人を雇って、竹島でのアシカ漁に参入した。 1907年「竹島及鬱陵島」という本を出版した奥原碧雲(おくはらへきうん 1873-1935)によると、中井は最初竹島は朝鮮領であると考えていたが、隠岐出身で農商務省水産局に勤めていた藤田勘太郎や牧水産局長に面会して、更に海軍水路部で竹島の所属を確かめた。水路部長は中井に対し、竹島の所属は確固たる証拠無く、日韓両国の本土からの距離を考えれば日本の方が近く、加えて日本人は竹島経営に従事しているので、日本領に編入するのが自然であるとの説得を受け、中井は1904年9月29日に竹島の領土編入と貸し下げを内務、外務、農商務省の三省に願い出た。





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最終更新日  2012年08月30日 00時13分12秒
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