岩波新書と言えば・・・
岩波書店のPR誌『図書』の最新号は、「岩波新書」の特集号でした。と言うのも、どうやら「新赤版」と呼ばれるシリーズが1000タイトルを越えたらしいんですね。さすが新書の老舗だけあって、長く続くもんです。 しかし、どうなんですかね、岩波新書。最近でも、やはりそれなりに読まれているのでしょうか。 私自身はと言いますと、最近、読んでないですね、岩波新書。なんか私の興味と微妙にズレがあるようで、なかなか買ってみたくなるものがない。多分、一番最後に買ったのは、数年前に出た『未来への記憶:自伝の試み』(上・下、河合隼雄著)ですが、これはいい本だと思いました。私は別に河合ファンではないですが、自伝としてよく書けていると思ったし、河合さんのところの家族関係というのがすごく面白いと思ったもんです。でも、その後は、買ってませんなぁ・・・。 私が岩波新書をよく読んだのは、大学の1年生の時でした。高校時代の勉強と大学での勉強の質の違いに若干戸惑っていた私は、やがて「要するに大学生というのは、岩波新書に書いてあることが理解でき、こういう調子でしゃべれるようになることなんだろう」という具合にあたりをつけ、ジャンルを問わず岩波新書をバリバリ読んで、それで教養をつけたつもりになっていたわけです。素朴な発想ですが、まだ「岩波教養人」なんて言葉が生きていた時代でしたから、それで結構通用したんですな。 で、その時代には色々読みましたよ、岩波新書。あまり沢山読んだので、どれがどれだか分からなくなっていますが、中でもよく覚えているものと言いますと・・・福田歓一『近代の政治思想』鈴木孝夫『ことばと文化』高階秀爾『名画を見る目』中谷宇吉郎『雪』小泉信三『読書術』WSモーム『読書案内』(上下)梅棹忠夫『知的生産の技術』湯川秀樹『本の中の世界』池田潔『自由と規律』 ・・・とまあ、こういう系統のものですね。立派な著者が立派なことを言っていた時代ですわ。 で、1980年代に入ると、今度は「ニューアカデミズム」ブームがやってきて、従来型の教養なんてもう古い、もっと新しい知の体系が必要なんだ、という風潮になってきた。やれ「構造主義」だ、「文化人類学」だ、「神話学」だ、ってな時代です。で、その頃、岩波新書は黄版の時代になっていて、山口昌男とか中村雄二郎なんかが岩波新書を出していたもんです。でも私は個人的に「従来型の教養」が好きでしたから、ニューアカ・ブームにはあまり乗らなかった方で、話題になった中村雄二郎の『術語集』なんて、結局読まなかったなぁ。 むしろ黄版の時代の岩波新書で一番好きだったのは、亀井俊介さんの『マリリン・モンロー』です。亀井さんというのは、30代くらいで学士院賞をもらってしまうような碩学ですが、その方がこんなくだけた本も書かれるのだというのは、ある意味衝撃的でしたしね。 しかし、曲がりなりにも岩波新書と付き合いがあったのはその辺りまでで、その後、新赤版になる頃には、こちらも大分専門化していますし、時間もなくなる一方ですので、なかなか新書に手が出るというふうでもなくなってきてしまった。私も、また時代も、ゆっくり教養をつける、なんて暇がなくなってきたんでしょうな。 実際、その後、人から「あれは面白いよ」と推薦され、古い岩波新書を買ったりもしましたが、ちょっと読んでは放り出してしまい、なかなか最後まで読めなくなってしまった。例えば加藤周一『羊の歌』とか、丸山真男『日本の思想』なんてのがそれで、どちらも名著といわれておりながら、私はまだ読み切っていません。これらの本は、今から四半世紀前に読んでおくべきだったのでしょうね。 ひと昔前、新書といえば岩波か中公か講談社しかなかったものですが、今はそれこそありとあらゆる新書が書店にひしめいています。『バカの壁』とか『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』とか『下流社会』などなど、ベストセラーになるものもあるようですので、この時代になってもまだ新書を読む人はいるのでしょう。しかし、やはり今どきの新書は、今どきのものでありまして、かつての岩波新書の教養主義の行き方とは、大分ニュアンスが違うようです。今の岩波新書すら、かつての岩波新書とは大分違いますからね。 でも、昔、大学に入ったばかりの頃、教養を求めて岩波新書を1冊、また1冊と読破していた頃のことを思うと、懐かしい感じがしますなぁ。特定のどの本が、ということではなく、岩波新書というシリーズそのものが、一生懸命大人になろうとしていた私の一里塚だったような気がします。 今の若い人たちにとっては、一体何が、そういう意味での一里塚になり得るのでしょうか。彼らに近いところにいる私には、なかなかそれが見えないのですけれど。