エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』を読む
「アメリカ大衆小説を読むキャンペーン」を自分一人で実施中ですが、先日来読んでいた エリカ・ジョング(Erica Jong) の『飛ぶのが怖い(Fear of Flying)』を読み終わりましたー。 この小説、1973年に出たので、今から30年程前の作品ということになりますね。翻訳もあります(アレ? これも柳瀬尚紀訳ですね。どうも柳瀬さんはこの時期、こういう系統の翻訳を随分やっていらしたんですなぁ・・・)ので、既にお読みになった方も多いと思います。アメリカのみならず世界中でベストセラーになった作品です。 にもかかわらず、これまで私がこの小説を読まなかったのは・・・まあ、怠慢ゆえなんですけど、「フェミニストの小説」という未確認の風評があったので、食指が動かなかったんですな。ワタクシ、どうもフェミニストって苦手なもんで・・・。 でも、今回実際に読んでみたら、別にフェミニズム色が濃いというような種類の小説ではなかったです。いかんですね、偏見でもって読まず嫌いをしては。 で、じゃ、どういう小説かというと、主人公の30歳ほどの女性、イザドラの(精神的)放浪の物語です。 イザドラはニューヨークはマンハッタンに住む東欧ユダヤ系の中流階級の家庭に育ち、芸術を重んじる一族の、とりわけ母親の影響を受けて詩人となり、既に詩集も一冊出して、そこそこの評判を得ているところ。 ところがその私生活となると、かなりめちゃくちゃなんです。最初に結婚したブライアンという男性は、IQ200以上という天才だったのですが、いつしか発狂し、自分が第2のキリストだという幻想を抱くようになって病院に入れられてしまいます。で、ブライアンと協議離婚をしたイザドラは、次に音楽家と恋に落ちるも二股をかけられて破局、そして悩みに悩んで何人もの精神分析家の診療を受けた挙げ句、彼女を診察した精神分析家の一人で中国系のベネットという男性と再婚することなる。かくして、イザドラは安定した結婚生活を手に入れるのですが、無口で内向的な夫との結婚に飽き足らなさを感じてもいるんです。 そんな中、ドイツで精神分析関連の学会が開かれることになり、イザドラはベネットにくっついて(ほんの少し前にユダヤ人を殺戮し、ユダヤ系の精神分析家たちを国外追放した、その)ドイツまで行くのですが、その学会において、彼女は彼女が夢見る「放埒なファック(zipless fuck)」のお相手になってくれそうなエイドリアンという男性と運命的な出会いをすることになります。「静・理性」のベネットに対して、「動・情動」のエイドリアンは、イザドラにとって自分の夫の足りない部分を補ってくれるような存在だったんですな。そんなこともあり、イザドラはエイドリアンに惹かれていきます。 しかし、ベネットとエイドリアンは相互補完的な存在ですから、イザドラは二人のうちどちらを選べばいいのか、なかなか決心がつきません。で、ベネットとエイドリアンの間を行きつ戻りつしながら、優柔不断を繰り返し、ついには3P的な大混乱にまで陥るシュールでコミカルな場面が続くのですが、結局イザドラは、一生に一度くらいは冒険してみようという気になり、ベネットを残して、エイドリアンと冒険の旅に出ることになります。 そしてイザドラとエイドリアンの二人はヨーロッパ中を自動車で旅行しながら、恋人同士のように互いに束縛もしなければ、かと言って単なるセックスのパートナーというわけでもないという、いわばヒッピーみたいな実験的な男女関係を続けていくんです。そしてその間、自己解放への筋道として、エイドリアンに求められるまま、最初の性的な目覚めからベネットに到るまでの自らのウィタ・セクスアリスを赤裸々に語っていくわけ。 ま、そんなことをしながら旅をしていくわけですが、傍から見れば恋人同士みたいな形で過ごしているのですから、イザドラもエイドリアンに対し、恋人として依存しそうになるんですね。ところが、エイドリアンというのはもともと妻子持ちで、何だかんだ言っても最後は妻子のもとに帰って行ってしまうんです。 で、夫であるベネットのもとを飛び出しておきながら、愛人のエイドリアンにも旅の途中で放り出されてしまったイザドラは、残りの旅程を一人で旅する羽目になります。女一人で見知らぬヨーロッパを旅し、その過程で邪な男たちに色々ちょっかいを出されたりしながら、とにもかくにも自力で目的地(ロンドン)まで旅を続けるんですな。 で、この危なっかしい一人旅の中で、イザドラは何かを掴むんです。で、彼女は、その新たに掴んだ自分に対する認識、そして自分の将来に対する自信を手土産に、ロンドンにいたベネットのところに帰って行くんですな。それは、浮気をした挙げ句、しおしおと夫のもとに平伏すために戻ったということではなく、自分を解放するためのアクションをやり遂げた新しい自分としてベネットに再び対面するために戻ったんです。その結果、ベネットがどう出るか。もしもう一度やり直そうと言ってくれるのならよし、二度と顔も見たいくないと叩き出されるのであれば、それもよし、というぐらいの覚悟です。 そして、ベネットが不在の隙にホテルの彼の部屋に入り込み、勝手に風呂を使わせてもらっている時に、ベネットが帰って来た、というところで小説は幕を閉じます。この後どういう展開になるかは、読者の想像にお任せします、ってなところでしょう。 さて、以上、この小説の梗概を述べてみましたが、これを読み終えてみての私の感想を以下、簡略に述べますと、ま、単純に言って面白かったです。中盤、イザドラがベネットとエイドリアンの間を行ったり来たりしている部分がやや長くて冗長だったかな、とは思いましたが、小説の入りっ端なんてのは、スピード感のあるスラップスティック(どたばた)的なギャグ満載で、すごく面白かった。 その面白さの感じは、何となくアレに似てます。ウッディ・アレンの映画に。ウッディ・アレンの映画の中で、ウッディ演じる冴えない中年男は、いつでもユダヤ人ネタのギャグを体現し、妄想に満ちたセックスの悩みをぶつぶつ打ち明けるじゃないですか。ああいう感じなんです。はじめに言いましたように、エリカ・ジョングもまたユダヤ系であるわけですが、やはりユダヤ人特有の笑いの感覚というのがあるんじゃないでしょうかね。 それからもう一つ、作中においてイザドラは、単に「ベネットをとるか、エイドリアンをとるか」ということだけでなく、たとえば「芸術家になるか、それとも子沢山な主婦になるか」とか、「従順な女になるか、冒険的で支配的な女になるか」、あるいは「ユダヤ人としてのバックグラウンドを意識するか、コスモポリタンになるか」という感じで、常に二つの価値観の間で揺れ、しかもどちらの道をとっても孤独感を味わうという閉塞的な状況に陥っているわけですが、そういう閉塞的な状況を抱えつつ放浪を続けるというあたりについて言えば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』的な味わいもあります。『ライ麦』がティーン・エイジャーの男の子の放浪だとすれば、『飛ぶのが怖い』は30歳の既婚女性の放浪、と言っていい。『ライ麦』のホールデンもよくしゃべりますが、『飛ぶのが怖い』のイザドラも、よくしゃべります。この小説は、そういうおしゃべりの面白さを味わうべきものなんでしょうな。そこが日本流の私小説とは違うところ。 ただ、そのイザドラの無際限のおしゃべりの面白さを理解するには、読者の方にもある程度の知識が要求されます。たとえば、以下に示す第9章の冒頭の一節、 Of course it all began with my mother. My mother: Judith Stoloff White, also known as Jude. Not obscure. もちろんすべては母との関係から生じたのだ。私の母:ジューディス・ストロフ・ホワイト、通称ジュード。「曖昧」な人じゃないけど。 という部分を読んで、ははん、と笑えないといかんわけです。こういうのを説明するのも野暮なんですけど、イギリス19世紀の作家にトーマス・ハーディーという人がいまして、その人の代表作に『Jude the Obscure(曖昧なジュード)』(1895) というのがある。ですから、それにひっかけてイザドラは「通称ジュード。曖昧な人ではないけど」と言ったんですな。ま、これはほんの一例ですが、要するにこの程度の知識は読者として用意していないと、この作品に満ちている様々な言葉遊びやギャグは笑えない、ということになる。決して難しい小説ではないですが、その意味でかなり知的な小説ではあります。 てなわけで、色々書きましたけど、三十路女性のライ麦畑、あるいは女性版ウッディ・アレンたる『飛ぶのが怖い』、かなり面白いです。この小説の大部分は作家であるエリカ・ジョングの実体験に基づいている実話だそうですから、その意味でも興味津々。特に女性の方には、共感される部分も多いと思いますので、ぜひ一読をおすすめします。これこれ! ↓飛ぶのが怖い さて、「アメリカ大衆小説を読む」キャンペーンの次なる対象ですが、次は James Gould Cozzens の『By Love Possessed』という作品を読む予定。これまた5百数十ページの大作なので、いつ読み終わるか分かりませんが、読み終えたらまた感想を書くつもりです。乞うご期待~!