素晴らしい授業に思わず感動!
昨夜、レイトショーでウィル・スミス主演の『ハンコック』という映画を見たのですが、はっきり言いまして、あれはお金を払って見る映画ではないですね。私の評価は100点満点で57点。不合格です! さて、その話はちょいと脇に置きまして、昨日は公務で勤務先大学の附属小学校に赴き、教職希望の学生たちと共に現場の先生方の授業を幾つか参観させていただきました。で、この中で特に二つ、1年生の英語の授業を担当されたY先生と、6年生の国語の授業を担当されたS先生の授業があまりにも素晴らしかったので、その報告を少々。 まず1年生の英語の授業ですが、授業は夏休み前に習ったという英語の歌を歌うことからスタート。もうこの時点から子供たちのテンションは上がりっぱなしで、楽しくてたまらないというように歌って踊って欣喜雀躍です。そして1曲終わった後、Y先生が新しい英語の歌をユーモラスな振り付けと共に教えると、これまたあっと言う間に覚えてしまいます。 そしてそれが一通り終わると、Y先生、間髪置くことなく「実は昨日、マイケル先生からビデオレターをもらったよ!」と言って、まだ興奮冷めやらぬ生徒たちの注目をビデオに向けさせます。で、ビデオにマイケル先生が登場したのですが、これが何と金髪の鬘をかぶったY先生その人。どうやらY先生は時々マイケル先生に変身するらしいのです。これでまた生徒たちは大爆笑。で、そのマイケル先生、「I’m Michael! Nice to see you again!」などと挨拶した後、「How do you go to school? By car? By bus? By train? By truck? By bicycle? Please tell me!」などと問いかけるわけ。 で、3度程ビデオを見せると、耳のいい子供たちは何となくマイケル先生の言っていることが分かるらしく、ビデオを止めたY先生が子供たちに「今、マイケル、なんて言ってた?」と尋ねると、子供たちは「『ぼくマイケル』って言ってたよ!」とか「バスとかトレインとか言ってた!」、あるいは「アイスクリームって聞こえた(←「バイシクル」の聴き間違い)」などと答えます。 で、Y先生は子供たちの答えをうまく繋ぎながら、マイケル先生が「どうやって学校に行くか」を尋ねていたことを理解させ、その勢いに乗って立ちどころに「car」「bus」「truck」「train」「bicycle」という単語、それにそれらをひっくるめた乗り物全般を表す「vehicle」なんて単語を覚えさせてしまう。Y先生の発音も、それをまねる子供たちの発音も、なかなかのものです。 そして一通り乗り物を表す言葉を覚えさせた後、イスを動かして子供たちを車座にさせ、今度はこれらの単語を使ってゲームをさせるわけ。各生徒に乗り物一つを割り当てて、その乗り物の名前が発せられたら自分の座っていたイスを離れて別なイスに座らなければならないというゲームです。「フルーツバスケット」ならぬ「乗り物バスケット」ですな。これも最初のうちは「bus」とか「car」とか、一つずつやっていくのですが、慣れて来ると「car & bicycle」というように、「and」の使い方も併せて教えてしまう。 そしてしばらくこのゲームで楽しんだ後、今度はジャンケン・ゲームでもうひと騒ぎ。先に挙げた5つの乗り物の名前を書いた5種類のカードを各生徒に3枚ずつ配り、その上で互いにジャンケンさせ、勝った方が負けた方からカードを1枚もらうことで、5種類のカード全部集める、というゲームです。ジャンケンも英語で「Rock, scissors, paper! One, two, three!」と言わせ、またカード集めの交渉も負けた方が「What vehicle do you want?」と言い、勝った方は、例えば「I want a train!」と答えるというようにさせる。これで「want」の使い方を齧らせるわけですな。もし要求されたカードを持ってなかった場合は、「Sorry! Bye-bye!」です。もちろん、これらのゲームをさせている間、Y先生は細かく子供たちの様子を観察しながら、うまく遊べない子の相手になってやったり、カードを全部集めて報告にやって来る子供をほめてやったり、それはそれは上手に指導している。 というわけで、45分間の授業中、生徒たちは歌って踊って笑って遊んで、夢中になって過ごしながら、それでいてこの間、新しい単語や言い回しをすべて覚えてしまいました。 いやあ、Y先生、素晴らしいお手並み!! こんないい先生に習っている子供たちは本当に幸せです。しかもこれだけ上手に英語を教えていらっしゃるY先生のご専門は「英語」ではなく「社会」だというのですから、一層驚いてしまう。 さて、もう一つ感銘を受けたS先生の国語の授業ですが、こちらは6年生を対象にした詩の学習でした。題材は山村暮鳥の「りんご」という詩です。「りんご」 山村暮鳥両手をどんなに大きく大きくひろげてもかかえきれないこの気持林檎が一つ日あたりにころがっている ・・・結構、難しい詩ですよね・・・。 で、S先生はこの詩を教えるに当たって、まず「この詩を二つに区切るとしたらどこで区切る?」と問いかけます。これに対し、子供たちはしばし考えた後、ほぼ全員が「林檎が一つ」の手前で切れるだろうと結論を出します。まあ、妥当なところでしょう。 するとS先生、今度は「この詩、幸せな人が書いた詩かなあ、それとも不幸せな人が書いた詩かなあ?」と問いかけるわけ。 今度の問いは、前のと比べて少し難しく、子供たちの意見も二分されます。 たとえばある子は「『大きく大きく手を広げる』という動作とか、『日当たり』という言葉から、幸せな感じがします。りんごも赤いから、幸せそうです」などと堂々と意見を述べたりする。一方、「『かかえきれないこの気持ち』というのは、ストレスとか、そういう気持ちではないかと思うので、この人は幸せではないんじゃないかと思います」などと反論する子もいる。 と、そこでS先生は「りんごは『日当たり』にあるみたいだけど、そのりんごを見ている人はどこにいると思う? 日の当たるところ? それとも日の当たらないところ?」とヒントを出したんですな。すると子供たちの多くが、「日の当たってないところから、日なたにあるりんごを見ているのではないか」と推論した。なるほど、私もそんな気がします。 で、S先生はそこで山村暮鳥の生い立ちを語り始めたんです。貧しい生家。年齢を偽って16歳から働き始めたこと、妻との死別、そして晩年の病気、40歳での死・・・。そんな話から、生徒たちの大半は、この「りんご」という詩が、決して幸せとは言い難い生涯を送った人が作ったものであって、その悲しみの幾分かが詩の中にも表れているなあ、というような感じをつかみ出したんですな。が、もちろん単に悲しい詩というのではなく、何らかの悲しみを抱え、鬱々と悩んでいた人が、日なたに置かれたりんごを、物言わずとも充実した存在感を発散するモノとしてのりんごをじっと見つめることで、何か少しだけ悩みから解放されたような、そんな感じも含めた詩として、この詩を理解し始めた。 でもS先生はそこで「これはそういう(悲しい)詩だ」とは限定せず、「悲しい詩と思えば悲しく読めばいいし、明るい詩だと思えば明るい詩として読めばいい」と言って、最終的な解釈を生徒に委ねると同時に、「今日はせっかく大学生のお兄さんやお姉さんが来ているから、ちょっと朗読してもらおうか」などと振ってきたんです。そこで男子学生が「では、悲しい詩と思って朗読します」と言って、そのような朗読の仕方をした。 そこでS先生は子供たちに「いやあ、悲しい詩だったねえ! あのお兄さんにどんな悲しいことがあったのか、想像したくなっちゃうね!」などと冷やかすと、おませな小学校6年生の子供たちまでが「失恋! 失恋!」などとはやし立てる。 そしてそんな和やかな雰囲気の中で、S先生は「詩を読むだけで、その背景にある悲しみや喜びが伝わるのだとしたら、言葉の持つ力ってすごいねえ!」とまとめながら、今度は子供たち自身に、自分の読みたいようにこの詩を朗読させ、授業を締めくくったんです。 ね? なかなか上手な授業でしょう? それにしても、S先生の要とタイミングを得た指示に反応し、私も参観しながらこの詩の意味を考えていたんですが、私の解釈と同じようなことをいう小学6年生もいたりして、ははあ、その前に見た小学校1年生のあどけなさと比べ、6年生というのは大分しっかりしてくるもんだなあと感心してしまいましたよ。 というわけで、Y先生、S先生の、それぞれ素晴らしい授業運営を参観させてもらって、私は非常に感銘を受けたのですが、その一方、残りの2つの授業に関しては、これがまた非常によろしくない授業ぶりでありまして、同じ学校の中でも先生によってこんなに差があるのだなあと痛感しましたね。もう、これは運ですな。いい先生に担当してもらえば学校というのは楽しいところになりますが、逆にひどい先生にあたったら悲惨ですよ~。 ま、その辺についてはまた明日、論じることといたしましょうか。ということで、この項、また明日も続きまーす!