柴田元幸著『翻訳教室』を読みつつ、柴田訳にチャレンジする
先日の『翻訳の技法』(飛田茂雄著)に続き、柴田元幸さんの『翻訳教室』(新書館・1800円)を読んでおります。 なんで続けざまに翻訳関連の本を読んでいるかと言いますと、自分でも翻訳系の授業を大学でやってみようかなと思っているからなんですが、その観点から言いますと、本書『翻訳教室』は、もう、そのものズバリの本。何しろ本書の内容は、アメリカ文学の翻訳でも名高い柴田元幸教授が東大の学生たちを相手に繰り広げる翻訳の授業の実況中継であり、しかもこの種の授業を何年もやられて、授業形態も練り上げられ、完成された形になっていますから、これを読めば「なるほど、こういう風にやれば翻訳の授業というのはうまくやることができるのか・・・」というのがよく分かる。 と言っても、もちろんこれは柴田先生だからうまくできるのであって、誰でもできるような方法ではないわけですが。それにしても、めちゃくちゃ参考になることは確か。 で、その方法ですが、まず英語で書かれた小説の一節(分量にして1~2ページ分くらい)をあらかじめ学生たちにそれぞれ訳させ、その中で柴田さんが適当に選んだものを叩き台にして、ワンパラグラフごとにその訳文を検討していくんですな。で、そのディスカッションには、もちろん他の学生も参加する。そして学生たちから出される改善案をうまく取捨選択しながら、柴田さんが修正案を作り上げていくわけ。 で、その学生からの意見の取り上げ方が絶妙なんです。いい意見はもちろん、悪い意見であっても、それをうまく操りながら、誰もが納得できるような修正案を導き出していくわけ。それはもう、目を瞠る手腕ですよ。 そして、その修正案を作り上げていく中で、「翻訳ってのはこうやるもんだ」というのをまざまざと見せつけていくわけ。その鮮やかさ、深さ。しかも、それをユーモアをもってやるんだから、出るのは感嘆のため息ばかりよ。 これはもう、凄いとしか言いようがない。翻訳を目指す人はもちろん、英語に興味のある方であれば、誰にとっても必読の本と言っていいと思います。私もまだ途中までしか読んでいないのですが、早く最後まで読みたくてウズウズしているところ。今日日、なかなかそんな本はありませんぞ!これこれ! ↓【送料無料】翻訳教室価格:1,890円(税込、送料別) それにしても、柴田元幸先生と言えば、超売れっ子であり、超多忙な方であるにも関わらず、東大において、これほど内容の濃い授業をされているのかと思うと、我が身を振り返って大いに反省を強いられます。自分よりよっぽど忙しい人が、こういう授業をやっているのなら、私ももうちょい奮発しないといけませんな。 ところで。 これだけ大いに感心している本なのですが、現段階で一か所、「これは柴田先生の誤訳ではないか?」と思っている箇所があります。それは第1章、スチュアート・ダイベックの「ホームタウン」という小説の訳なのですが、当該箇所の原文は以下の通り: Later, heading back with her to your dingy flat past open bars, the smell of sweat and spilled beer dissolves into a childhood odor of fermentation: the sour, abandoned granaries by the railroad tracks where the single spark from a match might still explode. この文の、特に後半部分(コロン以後)なのですが、学生訳の最終修正案は、 「鉄道線路沿いにある、すえた臭いのする見捨てられた穀物倉庫。そこはいまでも、マッチ一本すった火花がパッと浮び上がったりする。」 となっていて、また柴田さんご自身の訳では、 「線路脇の、饐えた匂いの、使われなくなった、いまもマッチを擦る火花が時おりパッと浮かび上がったりする穀物倉。」 となっている。 しかし、これはおかしくないかなと。 私が訳すとするならば、 「鉄道線路沿いにある、使われなくなって、饐えたような匂いを発している穀物倉庫は、今なおマッチ一本擦るだけで爆発するかも知れないと思わせる」 くらいかなと。 穀物倉庫というのが、実は非常に引火しやすく、引火すれば大爆発を引き起こすものだ、というのは、私からすれば常識に属する知識ではないかと思うのですが、どうなんでしょうか? 穀物倉庫というのは、穀物が一杯入っている時は安全なのですが、貯蔵されている穀物が少なくなって、内部に空間が増え、穀物の破片が粉末状となって漂っていると、ダイナマイトのように引火して爆発するんです。だから火気厳禁なの。穀物を運ぶタンカーなんかでも、穀物を満載した行きは大丈夫なんですけど、荷物を下ろして倉庫が空になった帰りのタンカーって、ものすごく危険なのよ。 で、この文の場合、打ち捨てられた穀物倉庫ですから、もう穀物の粉末も下に沈み切って本当なら既に爆発の危険はないのですけれども、だけどそれでもやはり、ひょっとしたら、という恐れを抱かせる、ということなのではないかと。だからこその「still」なわけで。 またこの文に続く部分で、「・・・, and then the gliding shadow of a hawk ignited an explosion of pigeons from the granary silos.」というところがあって、穀物倉庫の爆発が、別な形で提示されている。そういうことも含め、柴田先生やその弟子たちの「マッチの火がパッと浮び上がる」という訳は、ちょっとおかしいのではないかと私は思います。ここはやはり、マッチの火は、「引火」「爆発」というニュアンスを入れて訳さなくては。 だって、そうでなきゃ、穀物倉庫とマッチの取り合わせの根拠がなくなるじゃないですか。 だけど、この本、既に第8刷なんですよね。誰も指摘しないのかしら。それとも、私の訳がおかしいのか? えーっと、名大のN先生他、これをお読みの同業者の皆さま、柴田元幸訳と釈迦楽訳、どちらに軍配を上げますか? 是非ご意見をお聞かせ下さい。