追悼・プリンス
「世界的歌手急死」の文字、そして派手なステージ衣装を身に纏った「誰か」の写真が目に入った瞬間、理性より先に直観で誰が死んだのか、私は悟りました。それは私が最も恐れていたニュースであり、だからこそ、まるで何度も予行演習をしていたかのような瞬時の反応を私はしたのでした。 プリンス急逝。 その第一報の衝撃の後、私はざわざわした気持のままネットの世界を駆け廻り、オバマ大統領をはじめ世界中の有名・無名のプリンスファンのコメントをむさぼるように読みました。が、それらがいずれも心からの哀悼の言葉であることは疑い得ないとしても、結局、どのコメントも私の心を鎮めるものではありませんでした。 私の心を鎮めるものがあるとしたら、それは「第一報は誤報でした」という、たった一行に収まる訂正記事以外、あり得ないからです。 それどころか、正直に言えば、プリンス急逝にまつわるニュースには、私(あるいは私と同レベルのファン)の心を逆なでするものの方が多かった。例えば彼の死を報じた大新聞の多くは、プリンスが映画『パープル・レイン』で世界的な人気を得たとか、過激なまでに性的な歌詞で「話題を呼んだ」とか、そんな三十数年前に終っていることを書き並べ、グラミー賞を7回も獲っただの、アルバムが1億5千万枚も売れただの、ロックの殿堂入りしているだのといったつまらない肩書を紹介した後、マドンナやらミック・ジャガーやエルトン・ジョンあたりのコメントを付して型通りの記事をまとめていた。無論、新聞の訃報欄などというものは、どのみち急ごしらえで作るのだから仕方がないではないかと言われればその通りなのですが、こんな記事でプリンスの生涯をまとめて欲しくないという気持はやはり残ります。 シェイクスピアが今死んだとしたら、モーツァルトが今死んだとしたら、ピカソが今死んだとしたら、それでもマスコミはこのレベルの訃報記事を書くのだろうか。彼らの訃報は、例えば「マエケン、大リーグで活躍」のニュースより話題性の低いものになるのだろうか。 私がプリンスのことを初めて知ったのは、1984年のこと。小林克也さんをVJに据えた『ベストヒットUSA』で『When Doves Cry』のプロモーション・ビデオを見たのが最初だったと思います。自伝的映画『パープル・レイン』から切り取ってきたシーンを織り交ぜながら、後半、バックバンド「ザ・レヴォリューション」を従え、鏡を効果的に使いながら歌い踊るプリンスの姿を見た時の衝撃。衣装から何から完全にプリンスの世界観を反映させ、見るもの全てをその中に引きずり込むようなパワフルな映像に、マイケル・ジャクソンのそれとは全く異なる、しかしそれより遥かに魅力的なものを私は見た。「泳ぎが得意」という意味では、魚もイルカもさほど差が無いかもしれないけれど、泳ぐ魚を見ていても退屈するばかり。それより、泳ぐことを心の底から楽しんでいるかのようなイルカを私は見ていたいと思う。それと同じように、私はマイケル・ジャクソンが華麗に歌い踊るのもスゴイとは思うものの、ずっと見ていたいと思うのはプリンスの方でした。 この映像を見た後、私がすぐにアルバム『パープル・レイン』を(もちろん1980年代前半のことですから、LPとして)購入し、ひたすら聴きまくったことは言うまでもありません。そしてこのアルバムに入っている『Let's Go Crazy』や『Baby, I'm a Star』、そして『Purple Rain』といったシングルカット曲が次々とヒットチャートを駆け上るのを「さもありなん」と眺めつつ、プリンスがこの『パープル・レイン』以前に発表したアルバムにも次々と手を伸ばしてみた。 そして2年前の1982年に2枚組LPとして発表された『1999』を聴いて、プリンスが『パープル・レイン』以前に、既に驚くべき才能を世に顕していたことを知ったのでした。『Automatic』や『Lady Cab Driver』の怪しげで淫靡な世界から『Little Red Corvette』の爽快でポップな音作りまで、そこにプリンスがプリンスとして存在していたんです。 そしてさらに順に過去に遡って『戦慄の貴公子(Controversy)』、『ダーティ・マインド』、『愛のペガサス(Prince)』と聴き進め、彼が18才の時にワーナーブラザースと契約して製作した処女作『For You』まで聴いて、この早熟の天才がここまで歩んできた道を見通すと共に、その全アルバムに記してある「Produced, Arranged, Composed and Performed by Prince」の文字に驚きを禁じえなかった。彼は作詞・作曲・編曲をすべて自分でこなすばかりでなく、管楽器とバイオリンを数少ない例外として、アルバムの制作に用いられるほぼすべての楽器を自分で演奏していた。こういう芸当は、何度も引合いに出して申し訳ないのですが、マイケル・ジャクソンには出来ないことでした。 しかし、これらのことにも増して私を驚かせたのは、『パープル・レイン』の商業的大成功からほとんど間を置くこともなく、プリンスが翌1985年に新譜『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』を出したこと。ビートルズの『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を意識して作られたとも言われるこのアルバム、プリンスが麻薬的な空想の中で作り上げたドリーム・ワールドとも言うべき「ペイズリー・パーク」に集う人々を描いたコンセプト・アルバムであり、LPのジャケットに描かれたアート・ワークも含め、『1999』や『パープル・レイン』までのアルバムとはまるで異なる、極めて幻想的な世界を見せてくれた。 「幻想的」という言葉は、「文学的」という言葉に言い換えることが出来るかも知れません。すなわち、『アラウンド・ザ・ワールド』は、プリンスが音楽で描いた小説なのだ、と。私がそんな風に思ったのは、丁度このアルバムが出た時、私が卒業論文の執筆に取り組んでいたからでしょうか。私が卒論のテーマとして選んだアメリカの女流作家フラナリー・オコナーの諸作品が持つ独特の宗教的/戯画的世界と突き合せても、『アラウンド・ザ・ワールド』はまったく遜色がなかった。少なくとも私にはそう思えた。だからこのアルバムを『パープル・レイン』の商業的成功に比して完全な失敗作であるとみなす世間一般の評価に、私はむしろ喜びさえしたのでした。なぜなら、プリンスのやろうとしていることが分かる人間は少なくいのだということ、そして自分はその少ない人間の内の一人であるということを確信出来たからです。 そんな馬鹿なことを考えるほど、私は既にプリンスの魅力に圧倒されていたのでした。 ところが、プリンスはそんな私の理解のさらに上を行く。あの完璧な『アラウンド・ザ・ワールド』からわずか1年後に、これまた前作とは全く異なるコンセプト・アルバム『パレード』を出すんです。『アラウンド・ザ・ワールド』が極彩色の幻想世界を描いたものであるとするならば、新作『パレード』は、その印象的なジャケット・デザインが示す通り、色彩を極度に切り詰めたブラック&ホワイトのお伽噺。プリンス自身が監督・主演を果したロマンス映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサントラですが、映画の商業的失敗はさておき、アルバムとしては素晴らしい出来で、特にシングルカットされた『Kiss』は、極端に伴奏を削り、シンプルなビートのみで構成される演奏が斬新で、再びプリンスを全米ヒットチャートNo.1の座に返り咲かせることになる。 どんなに高く評価したとしても、プリンスは次の作品で必ずその評価の上を行く。その限界の見えない右肩上がりの芸術的達成をリアルタイムで追うことが出来るということ、そしてこの怪物的天才と同時代を生きることが出来、彼が一体どこまで行くのかを見届けることが出来るということ――それは、ビートルズに間に合わなかった私の世代にとって、願ってもないセカンド・チャンスなのではないか。私には、そういう風に思えました。 そしてそんな私の過度な期待すらも圧倒するかのように、プリンスの快進撃は続きます。それは彼自身の作品のみならず、彼の「子分たち」の作品のプロデュースという形でも花開く。例えばザ・ファミリーへの楽曲提供とか。バングルスに提供した『マニック・マンデー』とか。ペブルスのアルバム『ペブルス』とか。特にジル・ジョーンズのアルバム『ジル・ジョーンズ』は、全曲プリンスの作詞・作曲で、隠れた傑作と言ってもいい。 そして、このあまりにも旺盛な製作ペースに目を瞠る我々をさらに驚かすような噂として、当時、まことしやかに伝わってきたのは、プリンスは既に数百曲の自作曲の録音を済ませており、その気になれば何枚でも新譜を出し続けられるということ。またこれはプリンスに近いシーラ・Eの発言だったか、ちょっと記憶が不確かですが、「彼はモーツァルトのように頭の中に完璧な音楽が鳴り続けていて、それをどんどん譜面に起こしていかないと解放されない」という趣旨のコメントを読んだことがあって、プリンスもまた音楽の神に魅入られたアマデウスであったのかと、私は激しく納得したのでした。 そしてその20世紀のアマデウスは『パレード』からわずか1年の後となる1987年に再び2枚組のアルバム、『サイン・オブ・ザ・タイムズ』を出す。そしてその翌年には『LOVESEXY』を、その翌年には『バットマン』を、その翌年には『グラフィティ・ブリッジ』を。プリンスの飽くなき音の探求は続きます。 そして1990年、「ヌード・ツアー」の一環として来日、東京ドームでコンサートを開くこととなる。レコードさえ聴いていれば満足で、めったなことではライブに行かない私も、プリンスの来日となれば是非もなく、このコンサートには行きました。予定されたオープニングは遅れに遅れ、結局、1時間以上遅れて始まったのですが、後で聞いたところによると、飛行機の都合で日本到着が遅れたプリンスは、渋滞する高速&首都高の路肩を爆走して東京ドームに向い、休む間もなくそのまま演奏に入ったのだとか。飛行機での10時間以上にも亘る移動の疲れもものともせずコンサートをやりきったということも驚きですが、噂によると、コンサート後も彼はほとんど眠らず、食べず、口にするのはわずかなお菓子ばかりで、そのまま作曲し、東京にいる間に新曲のレコーディングまで済ませて帰ったとのこと。 そして翌1991年、新しいバックバンド「New Power Generation」を前面に出した新譜『ダイアモンズ&パールズ』が出る。そして翌年には『ラブ・シンボル』が。その翌年にも、またその翌年にも、さらにその翌年にもプリンスは新譜を出し続け、結局、30年以上にも亘ってほぼ毎年のように新譜を、それも時には2枚組、3枚組、さらには4枚組の新譜を出し続けます。それも、常に時代の最先端を行く音作りで我々を文字通り驚かせながら。結果的には「最晩年」となってしまったこの2年ほどに限っても、新バックバンド「サード・アイ・ガール」を率いての『アート・オフィシャル・エイジ』と『プレクトラムエレクトラム』の2枚に加え、『ヒット・アンド・ラン・フェーズ1』『ヒット・アンド・ラン・フェーズ2』と都合4枚のアルバムを出し、そのいささかの翳りも見せぬ創作パワーを我々に見せつけている。 創作力の枯渇とか、インスピレーションの枯渇など、並のアーティストを襲う危機的状況は、プリンスにはまったく無縁だったのです。 それにしても、私はプリンスの一体何にこれほどまでに惹かれるのか。無論、彼の存在、そして彼のやることなすことすべて、というのが唯一の答えなのですが、それにしてももう少し分析的に考えると、まず彼の作詞能力、とりわけ韻の踏み方の絶妙さに私は圧倒される。 例えば最近の作品では、”HARDROCKLOVER” の冒頭、 There's nothing for the record And nothing to condemn It's in between this waking life And REM But you walked into the party To tell me to live up to our dreams We 'bout to get it started Turn my guitar up so I can make this woman scream! の2行目と4行目、"condemn" と "REM" で韻を踏むなんて、どうやったら思いつくのだろう。 あるいは"My Computer" という歌の次の歌詞、 called an old friend of mine just the other day No congratulations, no respect paid All she did was wonder if the rumors were true I said, "No, I ain't dead yet but, uh, what about you?" I can count my friends with a little peace sign, one, two It was Sunday night, instead of doing what I usually do, の下から2行目とか。 ああ、そんなことを言っていたら、プリンスのすべての歌詞に言及したくなってくる。 "Shy" という曲の冒頭、 After a month of just being alone he said, "I wonder what L.A.'s thinking" Streets he roamed in search of a poem amongst the wild and drinking When he sees cool dark skin in hot virgin white The search was over at least for tonight When she co-signed and then told him she was ... Shy - Cool dark skin in hot virgin white Shy - Lips say won't but her body say might Shy - Looks like we're going to take the long way home tonight これだけでもう映画のワンシーンさながらの喚起力。これ一発で、持って行かれてしまう。 プリンスを評価する追悼記事の中で、歌詞に触れたものが一つもないのは、私には非常に不可解でした。なぜならプリンスが作っていたのは「うた」であり、「うた」で重要なのはまず歌詞だろうと思うからです。そしてプリンスは、卓越した作詞者でありました。 一方、音楽的側面に関して私が解せなかったのは、彼の音楽について「ソウルやR&Bといった黒人特有の音楽をロックと融合させた・・・」的なことが、画一的に語られていたこと。というのは、私にとってプリンスの音楽はそういうものではなかったから。 例えばローリング・ストーンズの『ジャンピングジャック・フラッシュ』などを聴けば、ストーンズはロックだなとは思う。しかし、ビートルズの音楽はロックか? と問われたら、明確にそうだ、とは答えにくいでしょう。ビートルズの音楽は「ビートルズの音楽」としか言いようがないから。 それと同様、私にはプリンスの音楽は「プリンスの音楽」としか言いようがない気がします。それほどソウルっぽいとも、R&Bっぽいとも、特には思わない。否、もし仮にプリンスの音楽は白っぽいか、黒っぽいか、と問われれば、私はむしろ白っぽいとすら思う。 そもそもプリンスはNY生まれでも、シカゴ生まれでも、南部生まれでもなく、ミネアポリスの出身。そしてそのギターは、ジミ・ヘンドリックスではなく、サンタナの影響を受けたもの。またアーチストとして最も強い影響を受けたのはカナダの白人女性シンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルなのであって、そういう意味では、プリンスは白人文化の中で自らの芸術的センスを磨いた、とすら言えるでしょう。事実、シンニード・オコナーの『Nothing Compared to U』のように、プリンスの作った歌はしばしば白人女性によって歌われたりカバーされてまったく違和感がないし、またバックバンドについても、ロージー・ゲインズといった黒人女性シンガーとデュエットすることの多かった「NPG時代」より、リサとウェンディの白人女性コーラスを重用した「ザ・レヴォリューション時代」の方が、プリンス自身の声をより輝かせたような気がする。 少なくともプリンスが曲を作るに当たって「よーし、基本ロックで作って、そこに少しばかりR&Bっぽいテイストを入れよう」というような形で「ロックと黒人音楽の融合」を果たそうとしていたとはとても思えない。だから、そんな風に適当にプリンスの音楽性をまとめて欲しくないんです。プリンスはプリンスの好きなように歌を作っていたんだから、それは「プリンスが作りたいと思っていた音楽」でいいんです。「何とかと何とかの融合」なんて簡単に言って欲しくない。 でまた、「うた」が良くて、音楽が良くて、それだけでもスゴイのに、プリンスの場合、さらにパフォーマンスが素晴らしかった。 まず楽器演奏について言えば、何と言ってもギター。超絶技巧という面だけで言えば、ひょっとしたらプリンス以上の人も居るのかもしれないけれど、こと「カッコよくギターを弾く」ということになったら、プリンス以上の人って、他にいるだろうか。同じことはピアノにも言えて、プリンスがピアノを弾いているのを見ると本当にかっこいい。 また楽器演奏を含めたプリンスのステージ・パフォーマンスの素晴らしさたるや、もう、筆舌に尽くしがたいというか。しかも、自分一人のパフォーマンスではなく、バックバンドの統制もすごくて、その辺はジェームズ・ブラウンに範を取ったというだけのことはある。 そしてもう一つ、私がプリンスに関して好きなところは、彼が音楽上の偉大な先輩をリスペクトするところで、ジェームズ・ブラウンやマイルス・デイヴィスはもとより、ジョージ・クリントンやメイシオ・パーカー、チャカ・カーンといった、大御所ではあるけれども、一時、埋もれていたような人を手助けして再びスポットライトが当るようにしているし、その逆に、レニー・クラヴィッツのような実力のある若手を引き上げることもしている。つまり、ちゃんと歴史を見て、その中での自分の役割をしっかり演じている。その賢さ。一番新しいバックバンド、「サード・アイ・ガール」のメンバーだって、プリンスと一緒にパフォーマンスすることで、随分勉強になったのではないかと。 若い時こそ、セクシャルなイメージが強く、人によってはプリンスのことを苦手に思う向きもあったかと思いますが、本人が「ああいうセクシャルなことは、もうマドンナに任せた」と言っていたように、最近ではそういうイメージはほとんど影を潜め、むしろ『Baltimore』のような、真っ当な正義を貫くようなうたを発表をしたり、アーティストの魂のこもったアルバムをアルバムとして聞いてくれ、という趣旨のことを簡潔な言葉でさらっと言ってのけるなど、三十年を越えて第一線で活躍してきたキャリアを背景に、プリンスは今や発言者としての地位を獲得し、事実、彼の発言は、人々にリスペクトを持って重く受け入れられるようになってきた感がある。 またそうだからこそ、最近のプリンスの様々な言動は、ある種の感動をもって受け取られるところがあって、例えば最近私が耳にした噂に、あるクラブにプリンスが顔を出した時の話がある。その時、クラブ専属のバンドが演奏していたのだけれど、どうもそのバンドのギタリストの腕が悪かったらしいんですな。それでプリンスはしばらくは我慢して聴いていたのだけれど、さすがに我慢できなくなってきて、自らステージに駆け上がり、そのギタリストからギターを奪うと、飛び入りで演奏に参加し、「ギターってのはこうやって弾くもんだ」とばかり「手本」を見せたと。そしてその後、ギタリストにギターを返して去って行ったというのですが、そういうちょっとした「噂」が、むしろ微笑ましいものとして、快哉を叫びたくなるようなものとして、人々の間に広がって行くような感じがある。ああ、自分もその場にいて、プリンスが飛び入りで束の間演奏したその演奏を聴きたかったな、という思いが、特にプリンスの熱狂的なファンでない人たちの間にも湧き起こるような、そういう地位を、プリンスはついに獲得したのだと、私は思います。 だから、私はプリンスにもっと生きていて欲しかった! 60代、70代のプリンスがさらにどの方向に進化するのか、それを見たかった! プリンスが死んだあと、おそらく、ペイズリー・パーク・スタジオに残されているであろう膨大な量の音源が、切り売り的に売り出されるだろうという噂があります。だから、ファンとしては当分、プリンスの作った音楽に餓えることはないだろうと。 実は私もそのことをちょっとだけ思いました。まあいいや、まだまだプリンスの新譜は出るのだから、と。 しかし、それはプリンスの死の知らせがもたらした絶望が私に強いて痛みを忘れる即席の薬を探させた結果であって、本当はそんなことは何の慰めにもならないことは私自身、よく分かっているのです。 その存在を知ってから三十数年の間、私の頭と心と腹の中でずっと鳴り続けていた音楽、それを作ったプリンスがもういないということ。私はまだそのことを、整理し、納得することができないでいます。プリンスを思うためにプリンスのアルバムを聴き、聴くほどにその死がますます惜しまれる。その果てしのない堂々巡りの中、私は今、この痛みがいつか遠のいてくれることを祈りながら、ただひっそりと息を潜めているのです。