追悼・千代の富士
元横綱千代の富士、九重さんが亡くなりました。享年61。 元大相撲の熱狂的ファンであった私、とりわけ千代の富士の活躍に心躍らせた世代でもあるだけに、ショッキングなニュースでした。 それまでの力士の体型とはまったく異なる筋肉質の身体、類稀な運動神経に恵まれ、唯一の、しかし力士としては致命的な弱点でもある軽量を、技のキレとスピードと、そして極度の集中によって発揮される怪力によって補いながら、通算勝ち星、連勝、優勝回数など、数々の偉業を成し遂げた昭和最後の大力士。 輪島はあまりにもおっさんぽく、北の湖はあまりにも不恰好かつ憎々しげで、それぞれ名横綱といえども、個人的には熱烈なファンにはなれなかった。そんな時、彗星のように番付を駆け上ってきた千代の富士は、その精悍そのものの風貌、そしてその華麗な取り口によって一遍で私を魅了し、初めて本気のファンとなった横綱となったのでした。 千代の富士が横綱として在位していた期間、それは相撲ファンだった私にとって至福の時でした。 強いといえば圧倒的に強いものの、先にも言ったように、千代の富士には軽量という致命的な弱みがあり、また隆の里や北天佑など、何人か苦手な力士もいたりして、私が応援しなければ負けてしまうのではないか、という、ハラハラの要素があった。だからこそ、私は毎場所毎場所、千代の富士の相撲をハラハラと見守り、その中で彼が勝ち続け、優勝回数を伸ばす度にホッと安堵のタメ息を漏らす。まさに応援し甲斐のある力士であり、ファンからすれば、その弱点も含めて、楽しませてくれた。 特に、千代の富士は「優勝決定戦」に強かった。千秋楽、優勝決定戦の大一番で、確か千代の富士は負けたことがないはず。それはつまり、「この大一番、何としても勝ってくれ!」と祈るような気持で、テレビ桟敷の真ん前に陣取って応援する私の期待を一度も裏切ったことがない、ということでもある。 大学院を出て、そのまま就職が決まらず、一年間、様々な大学で非常勤講師をしながら食いつないでいた時、先の見えない状況の中で内心、鬱々としていた時代があったのですが、そういう時、不甲斐ない私に代わって千代の富士が勝ち続けてくれたことは、私にとっては一つの救いでありました。その時、彼は私の憂さを晴らしてくれたのと同時に、千代の富士があの小さな身体で頑張っているのだから、私も頑張らねばという気持にさせてくれたものでございます。 だから、私にとって千代の富士はただの横綱、ただの力士じゃないんですわ。ヒーローなんですわ。 私にとって、そういう意味でのヒーローは、プリンスと千代の富士、そしてF1ドライバーのミハエル・シューマッハなんですけど、プリンスが死に、千代の富士が死に、今年に入ってそのうちの二人が亡くなってしまった・・・。寂しいことでございます。 千代の富士の相撲で、一番記憶に残っているのはどの相撲だろうと、思い返して見たのですが、弟弟子であり、同部屋の横綱でもあった北勝海との優勝決定戦ですかね。 あの場所の前、千代の富士は娘さんを亡くしていて、その場所、千代の富士は大きな数珠を首にかけて土俵入りをしていた。そんな悲しみの場所で、よりによって可愛がっていた弟弟子と優勝決定戦をしなければならない立場に置かれてしまったんですな。娘さんのために勝ちたいという気もあり、娘さんがいない今、相撲に勝ったって仕方ないという気持もあり、弟弟子の北勝海に勝ちを譲りたいという気もあり、まだまだ第一人者の地位をゆずりたくないというプライドもあり、どう相撲をとっていいか、分からないようなところがあったのではないかと、テレビ画面にくぎ付けになっていた私には、そんな千代の富士の複雑な思いがヒシヒシと伝わってきたものでございます。 その大一番、結局千代の富士は、北勝海をものの見事に投げ飛ばす。 そして勝ち名乗りを受けた千代の富士の、その表情・・・。いや、それは表情というよりは、無表情というに近く、もともとクールな横綱ではありましたが、優勝の喜びも何も感じていない、しかし責任だけは果した男の、何とも言えない悲しい顔があった。 あの時の千代の富士の相撲が、やっぱり忘れられないかなあ。 大相撲がモンゴル相撲になり、横綱がもらった賞金を高々と掲げて満面の笑み、というような下卑たものに成下がり、私は相撲ファンであることを止めて久しいのですが、それにつけても、あの優勝した千代の富士の悲しい無表情が思い出されることでございます。一人の熱狂的なファンとして、あの大横綱の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。