文芸評論家と文学研究者の違い
『新潮45』に連載されている平山周吉さんの『江藤淳は甦える』を愛読しているのですけれども、最新号(12月号)の連載の中で、平山さんが「ぼくら」という言葉について考察を巡らせていまして。 それによると、デビュー作である夏目漱石論の冒頭で江藤は「日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけにはいかない」と書き出していて、論述の主体が「ぼくら」になっていると。 で、平山さんによると、江藤の使う「ぼくら」という言い方には出自があって、それは小林秀雄にまで遡るのではないかと言うのですな。実際、小林秀雄は「様々なる意匠」から「モオツァルト」あたりまでの評論の中で、さかんに「僕ら」という言い方をしていた。その他、中村光夫や北原武夫などの評論家も、「僕ら」という言葉でもって、自分の立場を明らかにしていたというのです。だから、主体を「ぼくら」に設定して論じる伝統っていうのは、前々からあるわけね。 で、それを読んだ私、うーーーん!と思いましてね。 というのは、私を含め、文学研究やっている人で、「僕ら」という主観から文学作品の分析をしている奴っていないだろうなと。 文芸評論家と文学研究者、何が違うのか、なんて、あんまり考えたことなかったですけれども、端的に言えば、それか! と。 だけど、考えてみると、「僕ら」という視点でモノを見るって、すごくない? 「自分はこう思う」というのは、これは自己責任で言っているわけだから、言っていることが正しかろうが間違っていようが構わないようなもんですけど、「僕らはこう思う」って言っちゃったら、それは少なくともある世代を代表してモノを言っているわけで、よほどの自信がないと言えないんじゃないかなあ。自分はみんなの代弁をしているんだ、って、どうやったら思えるんだろう? っていうか、評論とか研究とか言うことを脇に置いたとして、私が「僕ら」って言う時、それは何を指しているのかしら。 「バブル世代」? そうかも知れないけれど、「バブル世代」という言葉が成立するかどうか、イマイチ不安なところもある。 というのは、「世代」って言ったら、「嫌々ながら、時代に押しつけられて、そういう範疇に入れられている」っていうニュアンスがあるんじゃないかと。 たとえば「戦後・闇市世代」とかね。「ベビーブーマー世代/団塊の世代」とか。だけど、「バブル」には「嫌々ながら」っていうニュアンスがないからなあ。我々、結構その時代を楽しんでいたし。 だから、逆に、今の二十代には「ゆとり世代」っていう世代感はあるのかもね。彼らだったら、「僕ら『ゆとり世代』は・・・」って言えそうな気がする。 ま、とにかく、平山さんの連載を読みながら、そんなことをつらつら考えていた私だったのであります。