ダン・カイリー著『ウェンディ・ジレンマ』を読む
ダン・カイリー著『ウェンディ・ジレンマ』(原題:The Wendy Dilemma, 1984)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ダン・カイリーって、そもそも『ピーターパン・シンドローム』(1983)で一躍有名になった心理学者で、「ポップ心理学者」なんて呼ばれた人。『ピーターパン・シンドローム』は、「大人になりたくない」と思っている若い男性の心理を扱った本ですが、その姉妹本たる本書『ウェンディ・ジレンマ』は、そのピーターパン的男性にまんまと掴まってしまい、大人になりきれないわがままな男性の母親役を演じることで、破滅的な人生を送ってしまう女性の心理を分析しております。 まあ、ピーターパンものが売れたんで、ピーターパンつながりでウェンディもの書いちゃった、っていうね。自前で二匹目のドジョウを獲ったという。これだからポップ心理学者ってのは・・・ さて、前にこのブログでもご紹介したロビン・ノーウッドの『愛しすぎる女たち』(1985)も本書と同じことを言っているのですけど、この世には恋人や夫の「母親(役)」になってしまう女性ってのが、たーくさんいるらしいんですな。ダメダメな男に対して献身的に面倒を見ちゃうタイプ。 とにかく当該の男(恋人・夫)から愛想を尽かされたくないがために、ひたすら面倒を見る。そしてもしなにかへまをして相手の男を怒らせようものなら、その咎を全部自分で引き受けて、「わたしはダメな女だから、怒られるのも無理ないわ」と思ってしまう。相手の行動理由を全部、自分で説明しちゃうわけ。 で、終始そういう態度を取るものだから、ダメダメな男としては楽なわけですよ。だから、そういうダメダメな男は、鋭い嗅覚でもって自分の身の周りにいる面倒見のいい「母親タイプ」の女性を見つけて、餌食にしてしまうと。 で、ダン・カイリーはそういうタイプの女性を、児童書の『ピーターパン』で大人にならないピーターパンに振り回される少女の名前をとって「ウェンディ」と名付けるんですな。 で、じゃあどうしてウェンディみたいな女性がこの世に存在するのか? なぜ女性は自ら進んでウェンディになってしまうのか? と申しますと、やっぱり幼少期の体験が元になるらしい。 大体、ウェンディ・タイプの女性ってのは、その母親もウェンディ・タイプであることが多いんですな。で、母親からして、夫(つまり、娘からすれば父親)の言うなりで、夫の我がままを全部通し、悪いことは全部自分で引き受けてしまう。当然、そこに大人の男と女の間の公平なコミュニケーションってのはないわけですから、その夫は妻に対しても娘に対しても大人として接することが出来ない。本当なら「父親」として娘にきちんと接しなければならないのに、そういうことが出来ないわけ。それゆえそういう男性を父親に持った娘は、「父親から十分に愛された」という経験も記憶もないまま、大人になってしまうんですな。 だから、そういう家庭的背景を持った女性ってのは、愛されることに自信がない。それどころか、「自分は愛されるだけの資格がない」とか「自分は価値がないので、夫の妻としてふさわしくない」という固い信念を持ったまま結婚してしまうわけ。 だから、どんなことであれ、夫に逆らいたくないわけですよ。愛される資格のない自分と結婚してくれた夫が、もし自分に愛想を尽かしたら、もう自分の居場所はない、と思っているわけですから。それで限界まで消耗しきっているのに、まだあらゆることを自分で引き受けて、失敗すればその責任も引き受けてしまうという悲劇が生じてしまう。 ところで、童話『ピーターパン』には、もう一人、女の主要登場人物で、ティンカー・ベルってのが出てきます。 ティンカー・ベルはウェンディとは異なって、我が道を行く人なんですな。ピーターパンと付き合うにしても、彼に引きずられることはない。どこかに限界をもうけていて、ピーターパンの度を越した要求には答えない。つまり、ピーターパン(男)と付き合いながらも、しっかり自分というものを維持しているわけですよ。 ・・・と言えばもう容易に推測できるように、本書の著者ダン・カイリー先生は、世の女性たちに「ウェンディではなく、ティンカー・ベルにおなりなさい」と、本書を通じて呼びかけているんですな。 しかし、ウェンディ体質というのは、その女性がこれまでの人生をずっとそれで過して来たという意味で本質的な個性っていうか、存在意義そのものですからね。それを捨てるというのは、容易なことではないわけですよ。過去の自分を全否定することになるわけですから。ウェンディ体質が悪いものだと気付いたとしても、彼女にとっては慣れ親しんだ懐かしい家みたいなものですから、すぐ其処に戻りたくなってしまう。 だから、ウェンディ体質の女性がティンカー・ベル体質に変わるためには、相当の気力が必要となる。「もう絶対に、ウェンディにはなりたくない」という堅い堅い決意。まずはそれが必要。その上で、自分に対する自信(自分は他人から愛される資格と権利がある!)を持って、相手の男性に「これからはもう、あなたの言いなりになるつもりはない」ということを、明確な言葉と態度で示さなければならない。 そして、もし仮に相手の男性がそれを拒否するようであれば、それはもう修復不可能な人間関係だから、別れなさいと。 ま、本書の内容ってのは、そんな感じ。 結局、ダン・カイリーが言っていることってのは、ロビン・ノーウッドが言っていることとまったく同じだね。「ウェンディ」と名付けるか「愛しすぎる女たち」と名付けるかは別として、とにかくこの世には大人にならない男性がうようよいて、その大人にならない男性の面倒を見ちゃう女性もまたうようよいて、そういう(女性サイドから見て)破滅的な結婚生活ってのがたーくさんある。で、そういう実態が、1980年代の半ばのアメリカ社会の中でいよいよ顕著になってきたと。 その辺の時代的なことが分かったという意味で、私としては本書を読んだ甲斐はあったんですけど、それにしても、アレだね。この世にはひどい夫ってのが沢山居るんですなあ。びっくりするわ。そういうのと比べると、あれよ。ワタクシなんか、夫の鑑っていうか。世の女性からしたら、理想の夫、夢の男だよね。 だけど、ゴメンナサイ。もう人(妻)のものだから!ウエンデイ・ジレンマ The Wendy Dilemma (トレジャリ-・シリ-ズ) [ ダン・キリ- ]