H・S・クシュナー著『なぜ私だけが苦しむのか』を読む
このところ目先の仕事に気を取られ、本来の自己啓発本の研究がお留守になりがちだったのですが、それではいけないと手にしたのがH・S・クシュナーの書いた世界的ベストセラー『なぜ私だけが苦しむのか:現代のヨブ記』(原題:When Bad Things Happen to Good People, 1981)という本。 クシュナーはユダヤ人であり、ユダヤ教のラビで、本来、割り当てられた教区に住む人々の悩み・苦しみ・悲しみを聞いてそれを慰め、場合によっては神の道に戻るよう説得する側の役目の人なんですな。 ところが、クシュナーの息子のアーロンが3歳になった時、この幼い子が「早老症(プロゲリア)」であることが判明する。小さいうちから老人のような容貌になり、15歳くらいまでに死んでしまうという奇病であり、本人にとっても、また親にとっても非常に過酷な運命に見舞われたことになるわけです。 当然、クシュナーは苦悩します。なぜ罪もないアーロンがこのような病気に罹らなくてはならないのか、なぜ私がこのような悲劇を担わなくてはならないのか。それまでも過酷な運命を担わされて神への信仰を失いそうになっている人に対処していたクシュナーですが、今や他人事ではなく、自分自身の問題として、このような運命と信仰の問題を考え抜かなければならない羽目に陥ってしまったんです。 で、その苦しい思いの中、クシュナーは一生懸命考える。 こういう災難に見舞われた人の最初の反応は、(彼自身がそうであったように)、なぜ私が? だと。私はもちろん完全な人間ではないかもしれないが、相対的に言えば善良な人間である。それなのになぜ、私の身にこのようなことが降りかかるのか? もしそれが神の意志であるのならば、なぜ神はそのようにしたのか? そしてそのような仕打ちをした神に、それでも信仰を捧げなければならない理由はなんなのか? そして、この湧き上がる各種の問いこそは、聖書の『ヨブ記』にあるヨブの問いそのものであると。善良の人ヨブは、神の試みに遭い、すべての財産を失い、妻や子供を失い、自らも重病に罹って、その絶望の内に上に挙げたような問いを発するわけです。 無論、このような問いに答えることは簡単なことではありません。ヨブの病床を見舞った彼の3人の友人たちも、嘆くヨブを慰めるためにそれぞれ説得を試みる。曰く、神が意味なくこのようなことをするはずがないから、何かお前に罪があるのだろう。だから、神を呪うのはお門違いだと。しかし、このような「慰め」がヨブを慰めることはまったくありません。 で、クシュナーもヨブと同じように、最愛の息子を過酷な形で奪われる運命の中で、これは一体どういうことなのかと考えるのですが、クシュナーには、神が意図してこのような運命を彼に(あるいはアーロンに)与えたとはどうしても考えられないんですな。逆に、もしそうなのだとしたら、そんな神を崇める意味が分からないと。 だから、このことにはもっと別の理屈があるに違いない。そう、クシュナーは考えます。 で、クシュナーは最終的に、「この種の運命を左右する力は、神にはない」と結論付ける。 確かにこの宇宙は神が作ったのだろうけれども、聖書の記述を読めば分かるように、神はこの宇宙をゼロから作ったとは書いてない。そうではなくて、「混沌とした宇宙を、水と陸地に分ける」ところからスタートさせたと聖書には書いてある。つまり宇宙をゼロから作ったのではなく、無秩序の宇宙に秩序を持ち込んだだけだと。 だから、この宇宙に秩序が生まれたのであって、その後、この宇宙に起こったことのすべてはこの秩序のせいであると。秩序というのは、まあ言い換えれば物理・科学の法則ですな。 そして、その秩序に対して影響を与えることは、神にすら出来ないのだと。 例えば巨大ハリケーンが発生するのも秩序のせい、それがある地域を襲って甚大な被害を生じさせるのも秩序のせい。だから、被害が出たのを神のせいにするのもおかしいし、被害のうちに神の意図を探ろうという試みもおかしい。 それは病気も同じ。ある人はある病気に罹るし、同じような環境に生まれ育った人でも同じ病気に罹らないこともある。でもそれらはすべて、仔細に調べれば物理的・科学的に説明の出来る原因があるに違いないし、そこに神が関与することはまったくないと。なぜなら、神にはそうするだけの力がないから。 じゃあ、神は何に関与しているのかというと、起こるべきことが起こった後のことであると。 過酷な運命に翻弄され、絶望した人がいる。しかし、その人の隣りには神が居て、その試練に耐える力を与えてくれる。絶望から立ち直るだけの力を与えてくれる。それが神の奇蹟であると。そしてそれがなければ、人間はすべて絶望に打ちひしがれてしまうだろうが、そうなってないのだから、それこそが神の実在の証拠であると。 で、このことを土台にして考えれば、過酷な運命に直面している人、自分の命よりも大事なものを失って絶望に打ちひしがれている人に対し、人は何をすればいいか、自ずと分かるはずであると。 つまり、そういう過酷な運命が神の意図であるのだから、雄々しく受け容れろ、などというのは論外。死んだ人は、今頃天国で楽しくやっているよ、などと慰めるのも論外。 そうではなくて、「あなたの辛さ、あなたの悲しみ、そして何よりもあなたの怒り、それは当然である。あなたは不当な運命に見舞われたのだから」と肯定すること。そして、打ちひしがれているその人の傍に居て、その人のことを気に掛けている人間がここにいるし、他にも沢山いるということを態度で示してあげること。これが答えだと。 なぜならば、そうして悩める人の傍にいてあげるあなたこそが、神の言葉なのだから。それが神の奇蹟なのだから。 そういう意味では、聖書の『ヨブ記』の中のヨブの3人の友人たちも、一つだけ良いことをした。彼らはとにもかくにも、ヨブのところに駆けつけ、彼の嘆きを聞いてあげたのだから。(その後の彼らの慰めや非難はダメダメだけど・・・) また、過酷な運命に襲われた人も、神を呪ったり、運命を呪ったりしてはいけないと、クシュナーは言います。そういうことは、悪人にも起るし、善人にも起る。それは単なる偶然であって、そのこと自体には何の意味もない。だから、その意味のない運命自体に対して怒りを発するのはOKだけど、それをもって神を恨むのはお門違いだと。 クシュナーもまた、多くの自己啓発本ライターと同様、人間には完全な自由意志が神から与えられていると説きます。それは完全なものなので、人間がどういう考えを持ち、それに基づいて行動するかは、神ですらコントロールできない。だから、人間が他の人間に対して酷いことをする自由も人間にはあるし、そこに神が口を出すことはない。その意味で、ヒトラーの蛮行はヒトラー(及び彼の賛同者、放任者)のせいであって、断じて神のせいではない。神は加害者の傍には絶対に立たない。 ただ、神は被害者の傍には立ってくれる。そして、その被害に耐えるだけの力をくれる。神というのはそういうものだと。 とまあ、クシュナーはそういう風に考えることで、神と折り合いをつけたわけですな。そして、彼は息子の死の衝撃から立ち直り、自分と同じような運命に悩む人々の助けになればと、本を綴った。その力を与えてくれたのが神だと。 さて。 クシュナーはそういう風に考えたけれども、読者たる我々はどう考えるか。クシュナーの意見に賛同するもよし、賛同しないもよし、それは自由意志。ということになります。 私としては、そうですね、こういう考え方は、絶望の中にある人にとって、有効なんだろうと思います。少なくともクシュナーには有効だったのですから。 ただ、なんだかそう言ってしまうと、人間の側に妙に都合がいいなあ、という気もする。なんだか神を人間の都合のよいように解釈しちまっているんじゃないかというね。まあ、宗教ってのはもともとそういうもんだ、と言われてしまえば、そうなんですが・・・。 しかし、クシュナーの神のように、人間に理解できる神って・・・、それは神なの? そういう理解し易い神が、聖書の『ヨブ記』において最後にヨブの前に姿を現したあの神と同じ神だとは、私にはどうしても思えないのですが。 まあ、それは私がまだクシュナーのくらったような過酷な運命を受けてないから、そんなことが言えるのだ、とも言えますが。 ところで、本書の最後の方に、クシュナーがアメリカの詩人、アーチボルド・マクリーシュの戯曲『J・B・』に触れている箇所がある。聖書の『ヨブ記』を現代に飜案した、散文詩・・・というか戯曲ですな。 で、そこを読んで、あ、と思ったことがある。 私の師匠の一人であるS先生は、ヨブと同じようにたった一人の息子を失い、そのことの意味を考え続けた人だったのですが、そのS先生はこのマクリーシュの『J・B・』を愛読され、それを授業でも使った。ですから、私もS先生の授業でこの『J・B・』を読んだのですが。 で、私がS先生の授業でこの本を読んだのは、確か1984年のこと。 S先生が息子さんを失くされたのが1979年。クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』が出たのが1981年。 してみると、こう考えられないだろうか。つまり、S先生が息子さんを失くして絶望していた時に、クシュナーの本(つまりクシュナーが息子を亡くした苦しみから立ち直る本)が出て、これに気付いたS先生がこれを読み、またそこに言及されていたアーチボルド・マクリーシュの『J・B・』という本のことを知って、それを読んだ。 そして『J・B・』という戯曲に感銘を受けたS先生が、授業でこの本を輪読することを決め、その授業に私も参加したと。 そういうことだったのではないか――。 S先生亡き後、今となっては推測するしかありませんが、この時系列からしてそういうことだったのではないかという気がしますね。そうなりますと、私にとってこの発見は非常に大きい意味があるわけでありまして。 ついでにもう一つ言うならば、クシュナーの死んだ息子さんのアーロンは1963年の生れ(1977年歿)で、なんと私とぴったり同年。そんなことも奇縁ではあります。 というわけで、クシュナーの本、私にとっては期せずしてかなり重要な本となったのでありました。なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記 (岩波現代文庫) [ ハロルド・S.クシュナー ]