エリザベス・キューブラー・ロス著『ライフ・レッスン』を読む
センター入試の監督業務で日曜出勤をした、その代休を取ったので、今日は自宅でのーんびり。 で、古本ライターの岡崎武志さんが拙著について言及してくれているという噂を聞きつけ、掲載誌の『サンデー毎日』最新号を買いに近くの本屋さんに行ってみたもののまだ置いてなく(名古屋は一日遅れるのかしらん?)、手ぶらで帰るのもなんなので、その本屋さんの古本コーナーを物色。そして長田弘さんの『本という不思議』(みすず書房)の美本を200円でゲット! さすが、転んでもタダでは起きないワタクシなのでありましたとさ。 さて、それはさておき、最近、エリザベス・キューブラー・ロスの『ライフ・レッスン』(原題:Life Lessons, 2000)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょうか。 エリザベス・キューブラー・ロスは、「否認」→「怒り」→「取り引き」→「抑鬱」→「受容」と5段階で進展していく「死の受容プロセス」(キューブラー・ロス・モデル)を解明・提唱したことで知られる、スイス生まれのアメリカのお医者さんですが、晩年、脳卒中で左半身麻痺になりまして、本書はその麻痺後に書かれた最晩年の本の一つ。そのせいもあって、本書はロス一人で書いたのではなく、デーヴィッド・ケスラーという、まあお弟子さんみたいな人との共著という形をとっております。だから本文中、二人で書いた部分、ロスが書いた部分、ケスラーが書いた部分が分けられていたりする。でも、まあ、読んでいてそんなに不自然な感じはしません。 で、『ライフ・レッスン』っていうくらいですから、本書には各章に一つずつ、全部で15個のレッスンがあります。「愛のレッスン」「人間関係のレッスン」「喪失のレッスン」「忍耐のレッスン」「怒りのレッスン」・・・とか、そんな感じ。だから、まあ、「最近、自分は忍耐が足りないな」と思ったら「忍耐のレッスン」の章を読むとか、そんな感じで必要に応じて読むことも出来る。いわば家庭常備薬みたいな本ですな。 で、様々な臨床データ・・・というか、要するに医者として日々、色々な患者(その多くは死期の迫った患者)と接することで、彼らの言動から学んだこと・・・がエピソードとして書かれているので、その一つ一つのエピソードが面白いし、そこから引き出されてくるアドバイスもいちいち納得っていう感じ。で、そのアドバイスってのは、結局、他の自己啓発思想ともつながってくるようなものなんですわ。 例えば、「愛のレッスン」や「人間関係のレッスン」で語られていることってのは、「人はいかに愛を知らないか」ということね。普通、我々が知っているのは、愛ではなく、報酬だとロスは言うわけ。何かをしてあげたから、その報酬として愛される、という形の愛しか知らない。だから、そういう報酬としての愛で結婚してしまったりすると、やがて互いに飽きて互いに報酬をあげなくなり、それで「愛が失われた」と思い、それを相手のせいにする、という悪循環が生じると。 で、そうなると、人は大概、相手を変えようとするわけね。相手に非を認めさせ、謝らせ、態度を改めさせようと。だけど、それじゃうまく行かないとロスは言うわけ。相手は変えられないよと。 じゃあどうすればいいか。自分が変わればいい。まず自分自身を愛することから始め、相手を支配しようなんて思うことを止め、無限の愛に値する人として相手に接する。そしてすべての人間関係はなるべくしてなっているのだという究極の認識に至る。これが答えだと。 まあね、こんな感じで、「自分を変えれば世界は変る」「宇宙の(=神の)摂理は人智を超える」的な自己啓発思想に限りなく近づいて行くわけね。 また「力のレッスン」の章では、自分の中に宇宙の力があることを知れ! 的なことが書いてある。力ある万物を作った神が人間だけか弱く作る筈がないと(なるほど~!)。じゃなんで人は道を誤り、その力を発揮できないかというと、「もっと」という思いがあるから。明日はもっとよくなる、という虚しい希望に振り回されるわけ。 だけど、死期の迫った人は、そうは考えないというのですな。なぜなら死期の迫った人には、「もっと」を期待する明日がないから。だから、生きている今、この瞬間に生きることを心掛け、そのことに感謝している。だから、死期の迫った人ほど、健康な人以上に生き生きとしているんですと。だから、我々も少し、そういう人達のことを見習えと。 これも、「今を生きろ」「感謝しろ」という、自己啓発思想と同じ結論のことを言っているわけですよね。 「恐れのレッスン」の章では、人間の究極の感情は二つしかない、すなわち「愛」と「恐れ」であると。で、愛は今現在の感情であり、恐れは過去や未来に対する拘泥であると。だから、怖れを捨て、愛を取れ。過去や未来に拘泥せず、今を生きろと。 こういう風に「愛」と「恐れ」で人間は出来ていると考えるのって、「ACIM」系自己啓発思想の考え方に通じるな。 「忍耐のレッスン」の章では、宇宙の摂理ということが強調されております。つまり、物事が起こるのには、どんな物事が起こるか、どんなタイミングで起るか、ということがあるわけですが、これらは全部宇宙の所掌事項であると。だから人間がそれを左右することはできない。出来ないにも拘らず、それをコントロールしようとするから苦悩ってのは生まれるので、そういう支配欲を捨てたところに、自由が始まる契機があるのだよと。第一、人間は怪我したって、勝手に傷が治るわけでしょ。あれ、各自の念力で「治れ!!」と体に命じて治っているわけではない。人間の意志とは関係なく、宇宙が治してくれているわけよ。それと同じで、すべてを宇宙に任せ、「いずれ上手くいく」と思ってリラックスしていりゃー、いいんだと。 ただね、宇宙に任せる際、理解しておかなければならないのは、宇宙はその人が金持ちになるかとか、結婚するかどうかとか、そんなことには一切、関心を持っていないということ。宇宙が関心を持っているのは、その人が人生をどう経験しているかどうかだけだと。それはつまり「真のあなた」になるための経験を経ているかどうか、ということなので、我々としては、自分の身に起こることを、すべて起こるべくして起こっている宇宙からの宿題だと思って耐えればいいと。 はー。納得。納得ですわ。難しいけれども。 だけど、「明け渡しのレッスン」の章でロスたちが言うことなんですけれども、一般に「コントロールすることはいいことだ、コントロールを放棄して現実に身を委ねることは危険だ」という観念で生きている人が多いんですな。 だけどロスたち曰く、別にあなたが命じなくても朝になると太陽は昇ると。時期になれば花は咲くと。で、我々が身を委ねようとしているのは、万物の運行を精妙に調整しているこの宇宙に他ならないのであって、これに身を委ねて何を怖れることがあるのかと。なるほどね~。 ただ、「委ねる」のと「降伏する」のとではまったく違う、というところが重要でございます。降伏するとは、自分の人生を否定すること。一方、委ねるとは、自分の人生を受け容れること。明け渡しとは、どんな状況にあっても、つねに選ぶことができるという考え方であると。 うーん、この辺りは『夜と霧』のヴィクトール・E・フランクルの思想と重なってきますな。そう言えばエリザベス・キューブラー・ロスもまた、アウシュヴィッツの強制収容所の見学から、人生をスタートさせた人なのでありました。 で、面白いのは、「じゃあ、いつ明け渡すのか」ということなんですけど、ロス曰く、「いかなる状況にあっても、毎日、毎時、この瞬間瞬間が明け渡しのチャンスである」と。「どんな人であれ、生れるときや死ぬときは、大きな力に自分を明け渡している。生まれたあと、死ぬまでのあいだに、われわれが道に迷うのは、明け渡すことを忘れているからである」と。明け渡さなければ、悪戦苦闘のすえに消耗しきってしまう。だから安心できないとき、行き詰ったとき、自分はすべてに責任があると思った時、変えられないことを変えたいと思った時、それらすべてが明け渡す時であると。 で、ここでロスの思想は、ラインホルト・ニーバーの有名な従容の祈り(The Serenity Prayer)に通じてくるわけね。従容の祈りってのは、 神様。願わくは、変えられないことを従容として受け容れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵をお与えくださいますように。 という奴ね。 あとね、「許しのレッスン」の章にはこんなことが書いてある。 子供の頃は「ごめんなさい」という言葉をよく言うし、それが受け容れられると。なぜなら、子供は未熟だから間違うものだ、という通念があるから。だけど、大人になると、「ごめんなさい」という言葉が少なくなるし、また発したとしてもそれで許されなくなってくる。 だけど、そこは許さなければならないとロスはいいます。なぜなら、大人も子供同様、間違いを犯す人間だから。 特に人は、苦しんでいる時、配慮を失った時、混乱している時、もろく、孤独で、感情的に未成熟な時、間違ったことをして人を傷つけてしまう。だから、傷つけられた人は、自分を傷つけた相手が、傷つけた瞬間に弱い存在だったことを理解し、行為を憎んで人を憎むなと。そして、傷つけられたことによってたまった怒りをなんとか放出し、心の平和を取り戻す努力をしなくてはならない。なんとなれば、相手への否定的な思いを手放し、自分の心の平和を取り戻すことこそが取り組むべきことだから。つまりここでも重要なのは他人ではなく、自分であると。自分を何とかすることが重要であると。 まあ、本書の中でロス(あるいはケスラー)が言っていることは、すべて正しいな。正しいばかりでなく、そのレッスンに従って、私自身もそういう心がけで生きたいと思います。 ちなみに、この本の中では、ロスが自分自身のことをさらけ出しているところもある。やっぱり左半身麻痺になって、思うように動けなくなったことへの不満・憤懣・怒りが思わず噴出しているような箇所があるんですな。それで、他人を中傷したりしているところもある。ロスも人の子なのよ。 だから、ロスは、自分自身にも必要なこととして「怒りのレッスン」とか「許しのレッスン」とか、「明け渡すレッスン」とかを書いているわけね。超越的な立場から書いているのではなく、至らない人間として書いている。 そこが、いいよね。 あと、本書の最後の訳者あとがきのようなところに書いてあったのですが、ロスが亡くなった時、アリゾナ州のスコッツデールで葬儀が行われたのですが、各種宗教の人がそれぞれのやり方でロスのあの世への旅立ちを準備しただけでなく、最後は、ロスの息子さん娘さんの手で特別な儀式が執り行われたんですって。 それは、「蝶を放つ」という儀式だったそうで。つまり、葬儀の参列者に、袋に入った蝶が渡され、合図とともに一斉にその蝶を空に放ったんですって。 ロスが若い頃、ユダヤ人の強制収容所の跡を見た時、そこの壁に爪や石によって蝶の絵がやたらに描かれていたんですと。 つまり、明日は死ぬかも知れないユダヤ人たちが、蝶を描くことで、現世の苦しい蛹の殻を破り、蝶となってあの世へ飛んで行く、その幻想の中で日々の苦しい生活をしのいでいたんですな。 その蝶の絵を見たことで、人間の死をテーマにした研究活動に邁進することになったのがロス博士なわけだから、そのロスの死に際し、蝶の儀式をしたというのは、なかなかふさわしいことだったわけ。 あー。ちょっといいな・・・。 私はいつ死ぬのか分かりませんが、私が死んだら、その葬儀で、参列者に蝶を空に放ってもらうのも、ロマンチックでいいかもね。 ということで、この本、色々な意味で、とても勉強になったのでした。教授のおすすめ! と言っておきましょう。これこれ! ↓ライフ・レッスン/エリザベス・キューブラー・ロス/デーヴィッド・ケスラー/上野圭一【合計3000円以上で送料無料】