恐るべき自己啓発本『インナーテニス こころで打つ!!』を読む
「例えば芽を出したばかりのバラが『私には花びらがない。私はバラではない』と涙を流したら、人間は笑うだろう。種でもツボミでもバラはあくまでバラなのだ。それが本質なのだ。ところがバラを笑う人間の方は、「形」にばかり左右される。真実は、バラが人間を笑うべきなのだ。」 さて、上に挙げた引用文は誰の文章でしょう? バラの譬えからしてラルフ・ウォルドー・エマソンだと思った? ところがさにあらず、これはW・ティモシー・ガルウェイの『インナーテニス』(原題:Inner Tennis: Playing the Game, 1976)という、テニスの指南本の一節なのでした。 この本、一見するとテニスの腕を上げるためのスポーツ指南本なんですけど、実はとんでもないほどの自己啓発本の傑作、ほとんど名著と言っていいほどの代物だったのでございます。いやあ、実際に読んでみてビックリよ。 W・ティモシー・ガルウェイは1938年生まれ。ということは、『ホール・アース・カタログ』を創刊したスチュアート・ブランドと同い年ね。サンフランシスコ生まれで、15歳の時にテニスの全米ハードコート選手権で優勝。ハーバード大学に進学して美術を専攻しつつ、同大のテニス部主将を務めた人物。で、その後東洋思想に興味を持ち、ハーバード大学で教壇についた後、ヨガをテニス・レッスンに導入することのメリットを発見し、そこからカリフォルニアでテニスのレッスン・プロとして活躍。独自のテニス教授法で注目され、その一つの成果が本書であったと。 やっぱり、この年代のアメリカ人ってのは、二十代で東洋思想やヨガに出会う運命なのね・・・。 ま、それはいいとして、問題はこの本ですよ。 私に興味があるのは、「アメリカにおいて、1970年代に、スポーツが競い合いを止める」ということなのでございます。 ま、これは1960年代後半のカウンター・カルチャー(=ヒッピー・カルチャー)の置き土産だ、というのが私のセオリーなんだけど、ヒッピーというのは、スクエアな社会から自らの意志でドロップアウトするわけですよ。スクエアな社会ってのは、要するに競争社会ね。何しろアメリカというのはアメリカン・ドリームの国なのであって、アメリカン・ドリームってのは競争に勝ち抜いた男を称えることによって成り立っている。競争に勝って、功成り名遂げた男がえらい、っていう文化だから。 で、アメリカのスポーツは・・・っていうか、従来のスポーツというのは基本的に勝ち負けを決めるものであって、それは言うなればアメリカ社会の縮図でもあった。勝った奴が一番えらいんだから。プロ野球にしたって、今日の試合に勝つ、ペナント・レースに勝つ、ワールド・シリーズに勝つことが目標なのであって。 だけどヒッピーたちはそういう「勝者=偉い」という文化を嫌った。だから彼らは勝ち負けのない運動を好んだ。例えばジョギング。例えばヨガ。そして合気道(合気道は護身術なので、試合がない)。さらに言えばフラフープだとか、フリスビーだとか。これらアメリカで70年代に流行した運動ってのは、基本的には勝ち負けを決めるものではないのよ。 で、ならば勝ち負けのない運動に彼らが何を求めたかというと、結局、東洋思想的な意味での哲学ですな。肉体の動作を通じて、精神性を高めようという。あるいは、スポーツを通じて自分自身の内面と対話する。そういうことを求めたと。 ま、ここまではわかりやすいよね? じゃあ、本書『インナーテニス』でガルウェイのやったことの何が新しかったかというと、ガルウェイはテニスのような従来型のスポーツ、すなわち勝ち負けを付けるようなスポーツの中に、精神性を求めたんですな。そこが新しかった。ラケットを捨ててヨガにいそしむばかりが能じゃないよと。ラケットを振る中にもヨガはあるんだよと。 しかも、このガルウェイの斬新なテニスの教え方が、素人に対しても、またある程度実績のある中・上級者に対しても、抜群の、そして即効性のある効き目があったというのだから、この本がベストセラーになったのも無理はないでしょう。 じゃあ、ガルウェイのテニスの教え方って、一体どういうものなのか? まずね、ガルウェイはスポーツをしている人間の中に二人の人物がいて、常に無言の会話がなされている、と仮定します。叱っている奴と叱られている奴ですな。ここで叱っている方を「セルフ1」、叱られている方を「セルフ2」と呼ぶならば、セルフ1はいつもセルフ2に指示したり、ののしったりする一方、セルフ2の方には口答えする権利がまったくない。 この「セルフ1」とか「セルフ2」という言い方は、チャールズ・ライクの『緑色革命』(1970)に出てきた「意識1」「意識2」「意識3」なんていう用語を思い起こさせつつ、実際はむしろ交流分析で使う「ペアレント」「チャイルド」に近いのかもしれないけれども、要するにセルフ1というのは人間の知的・感情的部分であり、セルフ2は本能的・肉体的部分であって、実際にテニスをしているのはもちろんセルフ2なんだけど、セルフ1はそんなセルフ2につきまとって、まるで自分がテニスをしているかのようにでしゃばってくる。 そして、この状況下でもさらに問題なのは、セルフ1はセルフ2のことを全く信頼していない、ということでございます。つまり、セルフ2が自己実現し、自分の潜在能力を発揮しようとしているのに、セルフ1がこれにつきまとって、セルフ2の自己実現の邪魔をするーーこれが、テニスをしている人間の中で通常起こっていることだ、というのがガルウェイがその長年の経験から喝破したところなわけ。 ということは、ガルウェイのテニス指導法が、どんなものになるかは想像がつくというものでしょう。いかにしてセルフ1の首根っこを押さえつけ、セルフ2のやりたいようにやらせるか。これが焦点になるに違いない。 実際、そうです。『燃えよドラゴン』(1973)の中のブルース・リーの有名なセリフ、「Don't think. Feel!」ですな。 で、実際そうだから、その面では驚かないのだけど、驚くべきはそのあまりにも顕著な効果ね。ただセルフ2を解放し、自由にさせるだけで、こんなにもプレーが上達するのか! という。そしてそれはまた、従来型のテニス指導法が、いかにセルフ1の強化につながっていたか、ということの気づきでもあります。 例えばズブの素人にテニスを教えるとなった場合、通常、どうします? まあ、普通はまずラケットの「正しい」握り方を教え、「正しい」振り方を教え、「正しい」インパクトの仕方を教え、「正しい」フォロースルーの仕方を教え、「正しい」フットワークを教え・・・ってな具合で、延々と「正しいやり方」を教えるでしょう。でもそういった「正しさ」のすべては、セルフ1の観点からの正しさ、それ以外はやってはいけないという規範ですな。でもそれらの正しさをすべて一度にこなすことなんか素人にはできるわけがない。素人はこれらの規範のすべてを破ったプレイを延々とし、その都度注意され、委縮し、やがて絶望し、テニスは自分には向いていないのだと結論付けることになると。 しかし、ガルウェイはこういう道筋は取らないのね。彼はまず水平に掲げたラケットでボールをリフティングさせるんですと。もちろん素人ですから、すぐにボールを落としてしまったりするわけですけれども、そんなことは一向にかまわない。ただひたすら、どういう風に打ったら、ボールがどういう動きをするか、ただそれを観察することに集中させる。 次。今度はガルウェイが助手に投げさせたボールをパコーンと打ち返すのを何度か見せた後、その素人さんに、ボールがコートにバウンドするときと、ボールがラケットに当たった瞬間に、それぞれ「バウンド!」「ヒット!」と言わせるんですと。自分はラケットを持たず、ただひたすらボールの動きに集中し、バウンド! ヒット! と言うだけ。 で、それが適確にできるようになったら、今度はラケットを手にして、ボールに当たるかどうかなんて考えもしないで、適当に振ってごらんと指示してみる。すると、いままでテニスなんかやったこともない素人が、いきなりパコーンとボールを打ち返すんですと。この間、わずかに20分。練習を始めて20分にして、テニス初心者は見事にボールを打ち返すことができるようになると。 つまりね、テニスというのは、要するにボールがあっちに行ったりこっちに行ったりするゲームであって、主役はボールなわけですよ。プレーヤーが関与することは意外なほど少ない。だから、主役であるボールの運動をひたすら集中して観察することが重要なのであって、あとはその人の中にあるセルフ2の本能的な学習コンピュータにデータを入れ続ければ、それが最適解を出してくれるので、それを信頼して動けばいい。 で、ここでもう一つ驚くべきことは、この素人さんのコーチであるガルウェイは、一連の指導の中で、手取り足取りということは一切していないということですな。学習のすべては、当該の素人のセルフ2が勝手にやることで、かくのごとくテニスは自動自習システムであっという間に上達するものであると。 この点について、ガルウェイは赤ん坊が歩くことを学ぶ過程に例えます。赤ん坊は勝手に歩くことを覚える。決して親という名のコーチから、「ほら、まず右足を出す! そこでふらつかない! バランスをって、今度は左足!」なんて手取り足取りコーチングされたわけではない。それでもあっという間に完璧に歩くことができるようになるのだから、人は誰でも歩くというテクニックを完璧にマスターする下地を持っているのであって、それはテニスの技術も同じだと。自分の中のセルフ2に任せ、セルフ1の口うるさいコーチングに耳をふさげばいいのだと。 同じことはテニス中級者や上級者にも言えます。例えば中級者で、打ち返したボールが相手コートの外に行ってしまいがちな人をコーチした際のこと。 ガルウェイはまずこの人に、何フィートくらい外に外したか、外す度に言わせたんですって。すると、4フィートも外しているのに、「1フィート!」などと言う。つまり、多くの人と同様、その人も自分が失敗した場合、どのくらい失敗したかを、ちゃんと見てないんですな。そりゃ誰だって失敗したことの現実を見たくないでしょうからね。 で、ガルウェイはその人のフォームとか、タイミングとか、力の入れ方とか、そういうことについては一切言わず、どのくらい外したかのコールを修正するようにした。「1フィード!」「いや、4フィート外してるよ」という具合に。で、そういうのを何回か繰り返していると、だんだんコールが正確になっていく。1フィート外した場合、「1フィート!」とコールするようになるんですな。で、さらにコートの内側にちゃんとボールが落ちた場合、「マイナス〇フィート」とコールさせるようにすると、だんだんマイナスのコールが増えていって、ついにその状態を維持することができるようになる。しかもその時、ガルウェイは一つも教えていないのに、その人は完璧なフォームで見事にボールにドライブをかけることができるようになっていたと。もちろん、何日もかけての話ではなく、その日のうちに、コーチングを始めてすぐに、という意味ですよ。 上級者の指導も同じね。例えばある上級者をガルウェイがコーチングした時、ある種の動きをするとき、そのプレーヤーが無駄なところに力を入れてしまって、うまく打てない癖がついているのに気がついたと。 で、ここでダメなコーチだと、「そこでリラックスして」とコーチする。 ガルウェイ曰く、「リラックスしろ」というコーチングほど無意味なものはないと。だって、リラックスしろと言われても、どのくらいリラックスすればいいか、当人にはわからないんですから。本当にリラックスするというのであれば、コート上に寝転んで試合放棄する以外ない。これが究極のリラックスですからね。でもここで必要とされているリラックスとは、そういうものではないはず。 そこでガルウェイはそのプレーヤーに、いつ、どういう動きをしたときに体がこわばるかを、プレーヤー自身に探させたんですな。で、それがはっきりしたら、今度はその動きを何度も再現させながら、こわばりの程度を0から5までの6段階で評価させたと。すると、最初は5とか4などと言っていたのに、それがだんだん3になり2になり1になり、ついにはゼロが続くようになる。しかもこわばりがとれるほど、打ち返すボールの勢いは強まるばかり。つまり、その人は、ギクシャクとした動きを克服したばかりでなく、力いっぱいボールをひっぱたくより、脱力して打った方が強いボールが打ち返せるという逆説を体得することになった。 このケースも、前の二つのケースと同様、自分のやっていることとその結果をきちんと自覚させることによって、セルフ2が活性化し、自動的にその癖を修正した結果、ごく短期間に望ましいプレーが一人でにできるようになったということなわけ。すごくない?! でね、このガルウェイのコーチング技術は、彼自身の体験から来たものなんですな。 ガルウェイもまた、テニス・プレーヤーとして様々なコーチから、「正しいフォーム」を叩き込まれ、それに近づけるように血のにじむ努力を重ねてきた。しかし、33歳の時にハタ・ヨガを初めて習った時に、ヨガの老講師から、自分の筋肉の動きを自分で感じたことがあるか? と尋ねられて衝撃を受けたんですな。その先生は、結果としてどういう動きになったか、という外的なことは一切言わず、自分がある動きをしたときにどう感じたか、その内面の感覚を尋ねられた。そして自分の内面の声に耳を澄ますようになってから、ガルウェイはいわゆる「正しいフォーム」を、副産物として、ついに身につけることができるようになった。 答えは外面ではなく、内面にあったんだ、という気づき。これがガルウェイ自身のプレーを変え、ひいてはそのコーチング・システムを根本から覆したと。 だけど、セルフ1に、すなわち「思考」に導かれることに慣れている我々現代人が、体の声を聴く、というのは案外難しいんですな。例えばテニスのストロークをしている人に「今、何を感じた?」と尋ねても、たいていはその人が経験しなかったことを答えるというのです。例えば「フォロースルーをしませんでした」とか「ボールを見てませんでした」等々。「〇〇しなかった」というのは経験ではなくて、思考ですから。 そこでガルウェイは質問を変え、「どうしてボールを見てなかったとわかったんだね?」と聞いてみる。するとその人は、「だってラケットの枠に当たりましたから」と答える。そこでガルウェイはさらに「なぜラケットの枠に当たったとわかったのかね?」と聞くと、「当たった瞬間、手がビリビリしましたから」と。 そこでガルウェイは叫ぶわけ。「それだよ! 『何を感じたか』の正しい答えは、『手がビリビリした』だよ!」と。 ことほど左様に、多くの人は、セルフ1で、すなわち頭でテニスをするので、テニスが非常に難しくなる。テニスというのは、「ボールが現実にある場所」にラケットを出すから当たるわけですな。でも人はたいてい、ボールはここに飛んでくるはずだ、という想定の場所をめがけ、さらにあの場所に跳ね返すべきだ、という理想論を持ってラケットを振るので、実際にはかすりもしない。現実と仮想が乖離しているので、当たるわけがないんですけど、その無駄な努力を続けている。 でも、この罠から逃れ出るのは実は簡単なこと。現実のボールに集中し、自分がそれに対して実際にどう対処しているか(=どういう風に空振りしているか)を観察すればいい。その際、自分の失敗ぶりにがっかりする必要はなく、ただ「なるほど、現実と自分の感覚はこれだけ乖離しているんだ」と、客観的に観察する。そもそも、ボールを打つのに失敗も成功もなく、ただこういう風にラケットに当たったら、ボールはこういう風に飛んで行った、という現実があるだけなんですからね。で、そういう風に現実を相手にすれば、セルフ2のコンピュータが両者の誤差を修正していって、たちまちのうちに現実のボールを、その動きに即した対応の仕方でもって、ラケットに当てることができるようになると。 これって、要するに自己啓発思想でいう直感への信頼、自己への信頼ですな。エマソンですよ、エマソン。 ところで、セルフ2に任せておけば、これほど簡単に上達するにも関わらず、なぜそうならないのか。なぜ人は、セルフ1の横暴に身を任せてしまうのか。 ガルウェイ曰く、人は誰しもセルフ・イメージを持っていると。しかも、客観的なセルフ・イメージではなく、否定的なセルフ・イメージを持っているのが普通だと。 これにもちゃんとからくりがあって、要は低めにセルフ・イメージを設定しておけば、大失敗したときのダメージが少なくなるわけですよ。ほら、最初からダメだと言っていただろう? というわけ。人間ってのは、そういう計算高い操作を無意識にしている。 で、当初は自分を守るために否定的セルフ・イメージを抱くに至ったとしても、その状態のまま失敗を繰り返せば、その度にその否定的セルフ・イメージを強化することにもなる。実際には何度かテニスでミスをしただけで、「自分にはどうしてもうまくできないショットがある」という苦手意識を持つようになり、それだけならまだしも、それがやがて「自分はそもそもテニスは苦手だ」となり、さらに「自分は生まれつき運動神経がない」となり、ついには「自分は何をやってもうまくいったためしがない」と、簡単に自己の全否定になってしまう。ちなみに、こうした傾向は、仮にいいプレーをしたときにも顔を出します。「自分がこれほど上手にプレーできるはずがない」という思いから、成功した実績自体、受け入れることができなくなってしまうんですな。そしていつも通りのへまが出ると、安心する。「ほら、やっぱりね!」と。 そして自分でそう思っているだけならまだましで、それを他人にわざわざ言ったりもする。相手プレーヤーに向かって「今日の俺は全然だめだ」などと宣言したりして。否定的セルフ・イメージを持つことと同様、そうすることで、自分がこれから犯すであろう数々の失敗について、先回りして予防線を張るわけですな。 そういう否定的な自己規定や公の宣言が、さらにその人を殻に閉じ込めてしまうのは当然で、もうこうなると、セルフ2の自由な活動なんか期待できるわけがない。 ところで、この種の自己否定は、しばしば「謙虚」という言葉で飾られることがある。ここがまた、自己否定の曲者なところで。 しかし、ガルウェイは、こうしたことのすべては、人が本当の自分を見つめようとしないことに起因する、と喝破します。否定的セルフ・イメージであれ、その逆の誇大的自己妄想であれ、本当の自分ではなく、虚像を見ているわけですよ。だから、テニスの初心者をコーニングするのと同じで、まず最初はボールを虚心坦懐に見るがごとく、自分がどういう人間なのか、自分の真価ってのは何なのかを見つめることが重要だと。 テニスにしろ、勝った負けたということに人は一喜一憂するわけですよ。けれども、それはセルフ1が考えることであって、セルフ2はまったくそんなことを考えていない。セルフ2は、ただ単に、自分の中にある最善の能力、最高の可能性を発揮するというチャレンジを楽しんでいるだけなんですな。 で、考えてみれば、人間が生きるということは、そういうことなんじゃないかとガルウェイは言います。 人間の真価が、その人の能力や達成で決まるものならば、人は他人から尊敬されるべく努力し、また努力の報酬を期待することになる。成功した時は幸せになり、失敗すればみじめになる。しかし、考えてみれば、成功しようが失敗しようがその人の真価は変わらない。ガルウェイ自身、よく考えてみれば、成功しようが失敗しようが、自分の本質が不変であったことに気づくわけね。そのあたり、ガルウェイ自身の言葉を引用しましょう: しかし、肝心なのは自分の"真価"と対面することだ。/私自身、「つまるところ、私の生涯の望みは、私の持っている能力のすべてを発揮することであり、セルフ1の持っている野望によりかかって、それにつられて生きることではないのだ」という結論を、本当の意味で得るまでに長い時間が必要だった。/いまでも、この教訓を日々改めて感じ、より深く体にしみ込ませている。私は日々、より強い解放感を味わっている。(218頁) ここにおいて、ガルウェイは、勝ち負けのあるようなテニスのようなスポーツにおいても、インナー・ゲームの究極的なゴールは、自分自身の真価と対面することにあると喝破する。そしてそれが、最初に引用したバラの譬えにつながるんですな。バラは、花が咲いていようがいまいが、バラだと。 ここにおいて、ガルウェイはエマソン以上にエマソン的になっております。 もうさ、こんな素敵な自己啓発本、なかなかないですよ。私のように、日々、山のような自己啓発本を読み漁っている人間にして、なかなかお目にかかれないほどの傑作と見た。 ということで、スポーツを哲学した究極のテニス指南本、ティモシー・ガルウェイの『インナーテニス』、教授の熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓【中古】 インナーテニス こころでで打つ! /W・ティモシー・ガルウェイ(著者),後藤新弥(訳者) 【中古】afb