レイモンド・ムーディ著『かいまみた死後の世界』を読む
レイモンド・A・ムーディ・Jr.が書いた『かいまみた死後の世界』(原題:Life After Life, 1975)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、「死後の世界」について大真面目に取り上げた本としては最初のものでありまして、「死の五段階説」を唱えた『死ぬ瞬間』(原題:On Death and Dying, 1969)や臨死体験を扱った『死後の真実』(On Life After Death, 1991)で有名なエリザベス・キューブラー・ロスと同様、臨死体験系ジャンルの草分け(もちろん、オカルト系のそれは除く)と言っていいもの。 ところで、同じ「臨死」現象を扱い、死んだらどうなるかについて調査した本でありながら、ムーディの本が『Life After Life』で、キューブラー・ロスの本が『On Life After Death』であるってのは面白いですな。つまり「Life After Life」と「Life After Death」は言い方が大分違うけれども、ほとんど同意であると。 ま、それはともかく、死後の世界を真剣に扱った最初の記念すべき本ということで、歴史的には非常に価値のある本でございます。小さな一歩とはいえ、人類にとっては大きな一歩。 まず本書の内容に踏み込む前に、著者であるムーディについて紹介しておくと、まず彼は自分自身では臨死体験をしたことがなく、またオカルトとか超常現象には通じていない、ということを冒頭の「著者まえがき」の中で述べております。学歴も一風変わっていて、元々バージニア大学の大学院哲学科で学び、1969年に博士号取得、その頃、彼の興味の対象は倫理学・論理学・言語哲学だったと。で、その後ノースカロライナの大学で3年ほど哲学を講じた後、医科大学に進学し、医学哲学とか精神医学の研究を目指すようになるんですな。 で、そんなムーディが初めて「死後の世界」について知ったのは、バージニア大学時代の1965年のことで、たまたまその大学の精神医学科の臨床教授から、教授自身の体験として、「死んでいた時」の異様な体験を聴かされ、そんなことがあるのかとビックリしたのが最初。その後、ノースカロライナの大学での講師時代、プラトンの『ファイドン』を学生たちと輪読していた時、その受講生の一人から、その祖母の臨死体験を聴き、先に聞いた教授の経験談と合わせて、ムーディの心中にこのことに関する興味がムクムクと沸き起こってきたと。 で、調べ始めてみると、意外や意外、結構な確率で臨死体験をした人が存在することに気づき、そういう人達から聞き取り調査をし始めたら、たちまち150例くらい集まってしまった。この150例の中には、実際に医師から死を宣告された後蘇生した真正の臨死ケース、臨死までは行かないまでも交通事故などで臨死体験と同様の体験をしたケース、あるいはそういう臨死体験をした人の話をまた聞きで聞いたことがあるというケースなど、レベルは様々だけれども、とにかくそういう経験自体は決して珍しいものではない、ということが分かるわけ。 では、それほど珍しくない臨死体験が、これまで、あまり世間の注目を惹かなかったのはなぜか? というと、答えは単純で、「人は死について語りたくないから」。 人は、他人の死に触れたり、死について語ったりすると、ただちに「いずれ自分も死んで無になるんだ」という思いに捉われ、その恐怖ゆえにその話題を極力避けようとする。あるいは死を「眠り」(ホメロスの『イーリアス』に、「眠りは死の妹」という表現がある)や「忘却」にたとえたりして、婉曲な表現をすることで、死と直接対峙することを避けようとすると。 その一方、ネアンデルタール人の遺跡の分析で、彼らが死者を花のじゅうたんの上に寝かせて埋葬したことが判明するなど、死を来世への旅立ちと考える文化ももちろん古くからある。こちらは死を忌避するのではなく、むしろ寿ぐような死生観であるわけだけれど、とにかく死ということを巡っては、こういう二つの考え方があるばかりで、どちらが正しいと確信されているわけでもなく、そういうあいまいさゆえに、死の話題が避けられる傾向にあるのは致し方ないところがあると。 だから、「死んだらどうなる」という話題は社会的にはタブーであり、語ること自体が避けられてきたんですな。 しかし実際には臨死体験というのはさほど珍しいことではなく、しかもその体験の内容がどれもほとんど同じであることにムーディは気づき、激しく動揺するんですな。臨死のシチュエーションはそれぞれの話者(=体験者)によって異なるのに、臨死体験の内容自体がどれも同じとなると、本当に死後の世界ってのはあるんじゃね? ってことになるわけで。そこでとりあえず「伝聞」のケースは外した上で、様々な臨死体験のデータを1年ほど時間をかけて分析し、書きあげたのが本書ということになります。 では、臨死体験をした人が経験するのはどういうものなのか。ムーディによると臨死体験には共通項が15あるというのですが、その15の共通項を踏まえつつ、典型例を人工的に作ると、以下に示すようなものになるらしい: ①わたしは瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達した時、担当の医師がわたしの死を宣告しているのが聞こえた。②耳障りな音が聞え始めた。大きく響きわたる音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。③同時に、長くて暗いトンネルの中を、猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。④それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。⑤しかしこの時はまだ、今までと同じ物理的世界にいて、わたしはある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の物理的肉体を見つめていた。この異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。 ⑥しばらくすると落ち着いてきて、現に自分がおかれている奇妙な状況に慣れてきた。⑦わたしには今でも「体」が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力を持っていることが分かった。⑧まもなく別のことが始まった。誰かがわたしに力を貸すために、会いにきてくれた。すでに死亡している親戚とか友達の霊が、すぐそばにいるのがなんとなくわかった。⑨そして、今まで一度も経験したことがないような愛と暖かさに満ちた霊――光の生命――が現われた。⑩この光の生命は、わたしに自分の一生を総括させるために質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。⑪さらに、私の生涯における主なできごとを連続的に、しかも一瞬のうちに再生して見せることで、総括の手助けをしてくれた。⑫ある時点で、わたしは自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それはまぎれもなく、現世と来世との境い目であった。⑬しかし、私は現世にもどらなければならない。今はまだ死ぬ時ではないと思った。⑭この時点で葛藤が生じた。なぜなら、わたしは今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世にもどりたくはなかったから。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。⑮ところが意に反して、どういうわけか、わたしは再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生した。(31₋32頁、丸数字は引用者) なるほど! 人間、死ぬとこういうことが起こるわけね・・・。 ところで、一つ重要なポイントは、臨死体験をした人の多くが、「光の生命」と呼ぶ他ないような存在に出会う、ということでございます。 これね、キリスト教徒の中には、この光をもって「キリストだ」と断定する人もいる。聖書の中で、キリスト自身が「世の光」と自己規定していますから、熱心なキリスト教徒は「ああ、これか!」と思うわけ。だけど、必ずしもこれをもってキリストと断定しない人も沢山いる、というところが面白いところで、実際、キリスト教徒であろうとなかろうと、臨死体験中にこの光の生命と遭遇し、これとテレパシカリーに対話する経験を持つケースが多いと。 で、さらに重要なことは、この光の生命に導かれて、人は自分の人生を自己総括させられるのだけど、それは決して「裁かれる」という嫌な感じではなく、たとえ恥ずべき黒歴史を見せつけられたにしても、その光の生命はそれを非難せず、むしろユーモアをもってそんなこともあったね、的な感じで人生の振り返りを促してくれると。 だから、臨死体験した人の多くは、それ以前に考えていたような「天国(報酬)」と「地獄(懲罰)」の二択みたいなことをさせられるのではない、と知ってホッとするみたいよ。 ただ、この人生の振り返りを経験した人は、必ずやある種の気づきをするんですと。その気づきとは、「人生で大切なことは、他人に対する深い愛を培うことである」ということと、もう一つ、「知識の探求をすべきである」ということ。この二つを学ぶのだそうで。 で、こういう経験をしたからと言って、臨死体験者は自分が「純化」されたとか、偉くなったとか、そういう驕り高ぶりを得ることはないんだそうです。ただ、愛と勉強、これが重要なんだなということを学び、蘇生した後は、それ以前の自分よりも、そういうことを心掛けるようにはなると。 そしてもう一つ、臨死体験者に共通するのは、この体験により死を恐れなくなること、そして、もう一つは、それとちょっと矛盾するようですが、「自殺だけはしちゃいかん」と思うこと、なんだとか。 ちなみに、ムーディは、これら現代アメリカでの臨死体験者の話を集めながら、これとよく似た話が過去にもあった、ということに気づくようになります。 例えば聖書。イザヤ書26-19とか、ダニエル書12-2、などもそうですが、一番典型的なのは使徒行伝26-13~26やコリント人への第一の手紙15-35~52にあるパウロの話。あとプラトンで言うと「ファイドン」「ゴルギアス」「国家編」の3つ。それから『チベット死者の書』。それにスウェーデンボルグの諸言説。 上に挙げたようなものの中には、現代アメリカにおける臨死体験とほとんど同じ内容のことが書いてある。それは、逆に言えば、そういうのを読んでいたから、臨死状態の中でその読んだ記憶が蘇ったんじゃね?と考えることもできるかもしれないけれども、聖書・プラトンはまだしも、さすがに『チベット死者の書』とかスウェーデンボルグとかを読んでいる人は、西洋人には少ないはず、それなのに、そこに書いてあるのとそっくりのことを、臨死体験者が語っているとなると、それはむしろ、古今東西を問わず、死後の世界が存在する証拠なのではないかと。 さて、本書後半は、「疑問」とか「解釈」という章が並んでおりまして、例えば「疑問」という章では、ムーディが講演などでこういう死後の世界の話をすると、決まって聴衆から持ち上がる疑問のいくつかが取り上げられ、それに対するムーディの現時点での回答が載っております。 例えば、医者からはこんな質問が出る。「もし、こういうことが本当にあるならば、医者である私が、こういう話を耳にしてもよさそうなものなのに、私は身近でこういう体験をした人の話をしたことがない。だから、これは嘘っぱちなのではないか?」と。 で、この質問に対して、ムーディが、「この会場に居られる方で、身近な人の臨死体験を聴いたことのある人はいますか?」と問いかけてみたところ、先の質問をした医者の奥さんが手を上げ、自分の知人で夫もよく知る人がまさに臨死体験をしており、その話を自分は聴いた」と答えたと。 つまり、医者というのは、自分で「非科学的」と見なした話を実際に聴いていても、右から左へ抜けて行ってしまうものらしいんですな。だから、そういう人は実際に存在しているものを目にし、耳で聞いても、認識はしないと。 まあ、これなどは愉快な例ですけれども、その他に、「臨死体験は、昔からあるものなのか?」という質問に対し、ムーディは、多分昔からあると思うが、昔の例を探ったわけではないので、よく分からない。ただし、現代の方が臨死体験の数は増えていると思う、というのは、昔は臨死は死を意味したが、現代は蘇生技術が向上したので、臨死の後、蘇生するケースが増えたからだ、と答えている。 こういう回答を読むと、ムーディは「知らないことは知らない」と明確に言う人であると同時に、非常に論理的にものを熟考する人であることが分かります。実際、ムーディの本書における執筆態度は、いわゆるオカルトの正反対、非常に論理的で、誠実で、非センセーショナルです。死後の世界がある、などと決めつけるのではなく、ただ淡々と、こういう興味深い現象がある、ということを論理的に述べているわけ。 そのことは本書の末尾でムーディが述べていることからもうかがえます。ムーディ曰く: こうしたことをここで述べるのは、わたしが自分の研究から一切の「結論」を引き出すことを拒否し、物理的肉体の滅亡後も生命が存続するとしている古代の教義を証明しようとしているのでもないと断っている理由を理解していただきたかったのである。しかし、わたしは死後の世界の体験報告は非常に重要なものだと思っている。わたしの望みは、これらの報告を解釈するための、中間的な方法を見つけることである。つまり、科学的、あるいは論理学的な証明が成立していないことを根拠に、これらの体験を否定せず、かといって、漠然とした感情的な主張を展開し、こうした体験が死後の生命の存在を「証明」しているとする感情論にも走らない方法を見つけたいのである。(220頁) ね。至極、まともな考え方でしょ? ところが、本書は、エリザベス・キューブラー・ロスが序を書いておりまして、その序の中でロスは「ムーディ博士は今後多くの批判を浴びるだろう」と不吉な予言をしております。 つまり、死後の世界のような話題を取り上げると、たとえこれほど控えめな執筆意図の下、これほど論理的かつ誠実に書いているにも関わらず、矢のような批判を浴びることは目に見えている、と、ロスは予告しているわけね。 実際、死後の世界の話をし始めたロスは、医学界からつまはじきされることになるわけですから、この話題がタブーであることをロスはよく知っていたわけ。医者とか科学者は、死後の世界の話を・・・してもいいけど、したらその時点で医者とか科学者としての人生は終わる・・・ロスが言っているのはそういうことね。 そういうやばい世界に、ムーディは、そしてエリザベス・キューブラー・ロスは、手を出したと。 ちなみに、ロス自身は、激しい批判に晒されても、平気な顔でこう言っていたそうです:「彼ら(批判者たち)も、死ねば分かる」と。 そう、この「お前らだって、実際に死んでみれば、我々が言っていることが正しかったことが分かるよ」というのが、「死後の生命アリ派」の必殺の決め台詞なのでありまーす! ということで、論争を呼んだ本であり、かつベストセラーになったレイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』、私はとても面白く、好感を持って読むことの出来た本だったのでした。興味のある方は是非!これこれ! ↓【中古】かいまみた死後の世界 /評論社/レ-モンド・A.ム-ディ,Jr.(単行本)