イアン・スティーヴンソン著『前世を記憶する子どもたち』を読む(1)
イアン・スティーヴンソンという人の書いた『前世を記憶する子どもたち』(原題:Children Who Remember Previous Lives, 1987)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 イアン・スティーブンソンという人は、ヴァージニア大学精神科の主任教授だった人ですが、一言で言いまして、学者として本格派。本ブログでは、臨死体験の研究者として、レイモンド・ムーディー・ジュニアとかケネス・リングなどの著書についても報告してきましたが、そんな連中の「研究」なるものが児戯に見えてくるほど、この本は本格的でございます。 「生まれ変わりの研究」などというと、眉唾な超常現象を扱った「トンデモ本」なんじゃないかと推測される向きもあろうかと思いますが、これは違う。要するに、これはアレですよ、本格的な文化人類学の本だと思えばいい。「生まれ変わり」という現象が世界各地で報告されているのだから、その実態を現地で詳細に調べ上げ、1ケースごとに厳密に検討し、信憑性のあるものとないものにふるい分けした上で、信憑性のあるものがあるのならば、それは一体どういうことなのかを考察する。その調査と思考の産物がこの本なのであって、ケネス・リングのオカルト本とは天と地の差でございます。 まあね、そうは言っても主題が「生まれ変わり」ですからね。信じるか信じないかは人によるし、信じない人はこの本を手にとりさえしないでしょう。それはもう、どんなに厳密な証拠を提示しても信じない人ってのはいるわけですよ。本書にも書いてあるのですが、ある田舎に住むアメリカ人の農夫が、友人に無理強いされて動物園に行ったと。で、そこでラクダを初めて見たんですが、しばらくジーっとラクダを見たあと、くるりと背を向けて、「こんな動物いるわけない」と言ったとか(339)。つまり、頑なな信念は直接の経験をも打ち破る可能性があるわけ。 しかし、かのドクター・ジョンソンが「仮に人影が現れて、『お前は悪いことばかりしているから悔い改めよ』と言ったとしたら、それは自分の良心から出た幻影である可能性が高い。しかし、どこからともなく『誰それがどこでどうして死んだ』というような声が聞こえてきて、そのことをまったく予期してもおらず、またそれを知るすべもないのに、しかも後で確認して状況が全くその通りだったと判明したら、超自然的な知的存在の実在を信じざるを得ない」とボズウェルに語った(406)ごとく、生まれ変わり現象の実在を証明する事象に出くわしたら、少なくともその可能性を検討せざるを得ない、というのがスティーヴンソンの立場でありまして、それは科学者の態度として(私は)納得できる。逆に、明らかに生まれ変わったとしか思えないような事象を前にして、「そんなことあるわけないじゃん!」と、端から検討すらしようとしないとしたら、それこそ科学者としてどうなんだと。昔、ガリレオ・ガリレイが「地球が太陽の周りを回っている」と言い出した時に、多くの科学者たちは「そんなことあるわけないじゃん!」と言ったのでしょうが、それと同じことなわけであってね。 さて、本書によると、そもそも「前世を記憶している人がいる」という話は、古代からあって、「ピタゴラスとアポロニオスの例」という二例があるけれども、これはあまり信憑性がない。一方、哲学的な考察から生まれ変わりの存在を確信するに至った一連の哲学者もいて、例えばプラトン、ショーペンハウエル、マクタガート、ブロード、デュカッスなどがその例(55)。しかし、これは考察ですからね。本当に生まれ変わり現象というものがあるのかどうかを検討する材料になるものではない。 では、大昔の伝説とか、哲学的思考の帰結とか、そういうのではなく、もっと現代的な意味での「生まれ変わり」現象の報告の中で信頼性の高いものとしては、ムガール帝国の皇帝アウランジーブが18世紀初頭に調査したインドの事例が最初なのだとか。で、その次に19世紀初頭の日本の勝五郎の例(ラフカディオ・ハーンの報告)が続く。その後は1898年にビルマで採取された事例6例まで長いブランクがあった。その後1900年から1960年までの60年間に、インドの生まれ変わり事例が心霊主義関係の雑誌などで報告されたんですと。 で、本書の著者スティーヴンソンは1950年代にこの現象を知り、興味を抱いて、それまでに発表されていた事例報告を集め、その比較検討を始めたところ、信憑性のある事例が44例見つかったと。で、1960年にこれらの中から7例を挙げた短い考察を論文にまとめたんですな。 で、これが呼び水となったのか、翌1961年、研究助成が出て(生々しい!)スティーヴンソンはインドに飛んで現地調査することができるようになったと。で、やり始めて見たら、あーた、見つかるわ、みつかるわ、予想外に「生まれ変わり」が普通に起こっていることが判明した。先ほど述べた44例は、35年間かけて集められたものだそうですが、スティーヴンソンが現地に行って5週間もしないうちに25例が見つかった。つまり、生まれ変わり現象というのは、数が少なかったのではなくて、報告が少なかっただけだったと(196-200)。で、以後25年間にわたってスティーヴンソンは研究チームを組んで研究を続け、インドのみならず世界各地(8文化圏)で事例を採取し、2000例を越すデータを集めることに成功するんですな。 ちなみに、一般に西洋人は「生まれ変わり」などというアホなことを信じているのは、文化の遅れた東南アジアの(ヒンドゥー教及び仏教を信仰する)諸民族だけだろうと思っているわけですけれども、実際に調べて見ると、生まれ変わり現象(信仰)を持つ民族というのは世界各地にある。 例えば北インド(チベット)、スリランカ、ビルマ、タイ、トルコ中南部、レバノン、シリア、西アジアに住むイスラム教シーア派の人々。キリスト教やイスラム教に完全に改宗していない西アフリカや東アフリカのいくつかの民族。ブラジルの一部の部族(アフリカの部族から持ち込まれたものらしい)。北アメリカ北西部に居住する先住民族。トロブリアンド諸島の住人。オーストラリア中央部の諸部族。北日本のアイヌ民族(51/149)。(著者は日本については調査していないが、調査すれば日本人にも生まれ変わり信仰はあることが判明するだろうと予想している)。あと、ドゥルーズ派の信者は、生まれ変わりを信じるどころではなく、故人が誰に生まれ変わったかを探り当てたいという強い願望を抱くのが普通、というようなケースもある(233)。 また、生まれ変わり信仰というと、カルマ信仰(現世の行いが来世に影響する、という考え方)とタイアップして考えられがちですけど、必ずしもそうではないんですって。生まれ変わり信仰を持つ文化圏であっても、カルマ的な考え方とは無縁のところも多いらしい(66)。 さらに、前世と現世の間の中間生について言うと、前世で死亡してから生まれ変わるまでに中間生に逗留していたと語る子供はいるのだそうで(173)、特にビルマやタイにそういうケースが多いらしい。逆にドゥルーズ派やジャイナ教徒のように、人間は死んだらすぐに生まれ変わると信じている文化圏では、中間生を想定していないんですと。で、中間生を体験した子供の証言によると、その世界では人々はゆったりとした着物を着、豪華な食事もあるが、別にそれを食べなくてもいいのだとか。 しかし、その中間生が事実であるかどうか、確認されていない(262-6)し、スティーヴンソンとしても、それを実証する方法が分からないということで、この点については深入りをしておりません。ただ、それでも前世の記憶を次に繋ぐ媒体が必要であるということはスティーヴンソンも理解していて、そのため「中間生」という仮説の代わりに、彼は「心搬体(サイコフォア)」というものがあるのではないか、という仮説を提唱しております(359)。 なお、生まれ変わり現象を信じる文化圏と信じない文化圏の間で、この件に対する対応は非常に異なるのだそうで、例えば著者が研究助成をもらって生まれ変わりの研究をしているというと、西洋人の研究者とアジア/西アフリカの研究者の間で同じ反応――「そんなことにお金を無駄にするなよ」という非難するような、憐れむような表情――が見られものの、前者の場合は「馬鹿だね~、そんなあり得ないことを研究してどうするんだよ・・・」という意味、後者の場合は「馬鹿だね~、そんなあったりまえのこと研究してどうするんだよ・・・」という意味なのだとか(341)。 さて、スティーヴンソンは世界各地で生まれ変わり事象が報告されると、そこへ通訳を連れ、現地スタッフも雇った上で調査に向かうわけですが、彼は自分がこの主題で調査をするに当たって、具体的にはどういうことをしたのか、その「調査方法」の実態を細かく明らかにしておりまして、それを読むと、まあ、この種の調査としてはほぼ完ぺきと思われる方法を採用しております。 それによると、まず生まれ変わりであるという本人へのインタビューはもちろんのこと、その親へのインタビューや、親戚や近所の人など、本人が生まれ変わりであるという話をし出したのを直接聞いていた人たちの証言もとってクロスチェックし、さらに調査が可能であれば、前世で住んでいた村などを尋ねたり、文書に当たって本人の発言の当否を調べる。そして、そうして集めた証言のうち、意図的なものであれ、無意識的なものであれ、ウソが混じる可能性(例えばトルコでの調査で「息子はジョン・F・ケネディの生まれ変わりだ」と言い張る親が三人もいたという)もできる限り排除し、「生まれ変わり」の証拠として確定してよいものとダメなもの、さらに最終的な確認はとれなかったものの相当に信憑性の高いものに分類する、といった手法で、まさに石橋を叩く要領でデータを採取していくんですな。例えば、ある家に、殺人事件で殺された男の記憶を持った子供が生まれた場合、他のすべての証言が生まれ変わり事象の正当性を証していたとしても、仮にその殺人事件が当事者の家から比較的近い場所で起こっていた場合、報道や噂話でその殺人事件のことを両親(あるいは本人)が耳にした可能性は否定できないし、たとえそのことを両親が忘れていたとしても、心のどこかに残っていた事件のデータがテレパシーで子どもに伝わったかも知れないので、これは生まれ変わり事象の証拠としては採用しない、という程の厳密さで、信憑性の低い事例を考察対象から排除していくわけ。 なお、本ブログでも前に扱ったように、「生まれ変わり」現象言説の一つとして「退行催眠」によってそういう現象の存在が発覚した、というのがあるわけですが、スティーヴンソンは、退行催眠によって過去生の記憶を獲得する、ということについては非常に批判的です。そういうのは、「過去生リーディング」同様、インチキの入り込む隙が大きすぎると。ですから、スティーヴンソン自身は退行催眠には一切かかわらないのですが、有名なヴァージニア・タイの事例(バーンスタインの著書『ブライディ―・マーフィーの捜索』で明らかにされたケース)については、退行催眠によって過去生が証明された数少ない例の一つだと認めています(71-78)。 で、それだけ厳密にデータを選別し、インチキ臭い例を排除していっても、やっぱり、どう考えても前世の記憶を持って生まれてくる子供がいる、という例が残っていくわけですよ。で、スティーヴンソンは、そうした絶対確実という例だけを取り上げていく。 で、その絶対確実だと思われるケースに絞って考えた場合でも、スティーヴンソンは必ずしも最初から「生まれ変わり」という現象を無批判に当てはめているわけではないんですな。 例えば「生まれ変わり」という考え方を採用しなくとも、「潜在意識」とか「記憶錯誤」などによってこの現象が説明できるのではないかとか、「遺伝」によって過去の記憶が伝わったのではないかとか、そういうこともちゃんと検討しているわけ。あるいは超感覚的知覚(要するにテレパシー)によって情報が伝わったのではないかとか、霊が「憑依」したのではないかとか、そういうことも検討している。けれども、そういう様々な可能性を検討すると、やはりそれぞれに説明の出来ないところが出てくる。例えば「過去に死んだ霊が新生児に憑依した」とすると、ある程度生まれ変わり現象を説明することはできるけれど、(後述するように)多くの子供が8歳以降、前世の記憶を失うことの説明がつかない、とかね(238)。何かの理由があって憑依したのなら、そのままその子が成人した後までずっと憑依してればいいじゃないか、というね。 で、そうやってあらゆる可能性を検討した結果、最後の最後に、こう考えると無理なく現象の説明がつく、というのが、「生まれ変わったのだ」という考え方だったと。 つまりスティーヴンソンは、安易に「生まれ変わり」という現象を認めているのではなく、様々な可能性を検討した挙句、この考え方が一番、現象を無理なく説明できるという意味で、「最後に受け入れるべき解釈(242)」として採用しているわけ。 で、本書にはそういう確実な生まれ変わり事象の例が幾つも上がっているのですが、これがまあ、実に面白い。 過去生の記憶を語る子供というのは2歳から5歳までがほとんど(162)で、以後、5歳から8歳くらいまでの間にその記憶が薄れていき(168)、その後は過去生のことをさほど語らなくなるそうですが、逆に2歳以前、すなわちまだ言葉が話せない時点で既に、過去生からの影響が見られる子供がいる。例えば、家族の中に今までそういう子が居なかったのに、その子だけ異様に水を怖がるとか、川に連れていくと火が付いたように泣くとか、そういう行動を取る子がいる。で、その子が言葉が話せるようになると、かつて自分は〇〇という名前で、その川のその辺りで溺死した、などと言い出したりすると。で、実際に調べて見ると、確かにかつてそこで死んだそういう名前の子がいたことが判明する。 ま、そんな調子で、いたいけな子供が、過去の記憶を語ったり、その影響を受けた行動を取るわけですけど、例えば、誰から言われたわけでもないのに、その辺から木の小枝とかを集めてきて箒を自作し、やたらに家の周りを掃除し始めたりする子がいるというのですな。で、何かと思ったらかつて自分は掃除婦だった、などと言い出すとかね。 あと酒好きの男の生まれ変わりの少年は、2,3歳の頃から「酒持ってこい~!」などと言い出して親を困らせるとか。前世でナイトクラブを経営していた幼児が、自宅でクラブを開こうとするとか(182)。あと、ハイティーンの頃の死んでしまった少年の生まれ変わりの幼児は、幼児なのに性欲満々で、年頃のお姉さんに抱き着いてはあらぬことをしようとしたりして困らせるとかね。あと、前世でビスケットやソーダ水を売るお店を経営していた子供が、お店屋さんごっこに熱中しすぎて学校に通うタイミングを失し、以後、公教育の中で落ちこぼれてしまって成人してから苦労する(191)というようなこともあるのだとか。 あと、戦後ビルマに生まれた子供で、かつて日本人の兵隊だった、と前世を語る子供がいるそうで、そういう子供の前でイギリスとかアメリカの話をすると、烈火のごとく怒ったりする。前世の日本人も、本当は日本に生まれ変わりたかったでしょうけど、戦争中に戦地で戦死するという特殊な地理的要因で、そういうわけにもいかず、仕方なく現地の子供にうまれかわっちゃったんでしょうな。 あと、インドの場合、違うカーストに生まれ変わる場合もある。例えば元バラモン階級の人が、下位カーストの家に生まれ変わった場合など、幼い子供が家人が触った食器が汚いといって手にしようとせず、あやうく餓死しかけるとか(190)。あと、家の手伝いをさせようとしても、「そんなことは召使のやることだ、俺を誰だと思っているんだ!」とはねつけるとか。あと「あーーあ、前の家の時は裕福で良かったのに、こんなクソみたいな家に生まれ変わっちまって情けねーなー」などと不満を言い続け、家人から総スカンを食らうとか。逆に、バラモン階級に生まれたのに、下層階級的な嗜好を表明して家族の総スカンを食らうケースもある(182)。 それから、生まれ変わりの場合、前世の嗜好が反映するらしく、これは南アジアのケースですけど、家族の中に他にそういう者がいないのに、その生まれ変わりの子だけ、ある特殊な麵料理を食べたがる、ということがあったりして、調べて見るとその麺料理は、その子が前世で住んでいた地域の名物料理であることが判明したりする。またそういう場合、その子のお母さんも、妊娠中にどういうわけかその麺料理を食べたくなるようなことも起こるのだそうで。 その他、ようやく言葉を話せるようになった幼児が、(普通は、「ママ」とか「パパ」とか言いそうなものなのに)開口一番「ぼくはここで何をしているんだ。港にいたのに」と言い出すとか(166)。この子は前世が港湾労働者だったんですな。 ちなみにこの港湾労働者のケースは、たまたまこの労働者が職場で眠りこけていた時に、同僚の不注意で大きな荷物をこの労働者の上に落としてしまって死んでしまい、その後、生まれ変わったのですが、このように「非業の死」を遂げた場合、生まれ変わることが多い(あるいは、死んだ状況のことを覚えていることが多い)ようで、先に述べた「溺死」のケースのように、生まれ変わった後に水を極端に怖がるとか、あるいはナイフで刺された場合は刃物を、また銃で撃たれて死んだ場合は銃器を怖がる子供として生まれ変わることが多いらしい。中には、自分を殺した相手の名前を憶えていて、復讐したいという強い意志をもって生まれ変わってくる奴もいるのだとか(225)。 そうそう、それを言ったらね、例えばナイフで刺された人が生まれ変わった場合、その赤ん坊には、ちょうど刺された体の場所に母斑(あざ)があることがあって、それも生まれ変わりの一つの指標になるらしい。 ちなみに 生まれ変わりのタイミングですが、文化圏によって異なり、レバノンで6カ月、トリンギット族で最長48カ月というのがあるけれど、前世で死んでから3年半未満で生まれ変わるのが大半で、中間値をとると大体死んでから15カ月で生まれ変わるのだそう(184)。意外に短いサイクルで生まれ変わりが行われていることが分かります。あと、前世を記憶する子どもの過半数(62%)は男児(247)なのだとか。 とまあ、「生まれ変わり」現象というのは、実に興味深いのですが、しかし、先にも言ったように、これを信じる文化圏と信じない文化圏というのがある。その差は一体何なのか。また、「生まれ変わり」現象を、本当にあるものと仮定すると、そこからどういうことが起こってくるのか、ということについて、スティーヴンソンは順次語っていくわけですが、ここまで大分長くなりましたので、この先のことについては、また次回に回すことにいたしましょう。これこれ! ↓前世を記憶する子どもたち [ スティーヴンソン,I.(イアン) ]