ゴーピ・クリシュナ著『クンダリニー』を読む
ゴーピ・クリシュナが書いた『クンダリニー』(原著:Kundalini, The Evolutionary Energy in Man, 1970)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 「クンダリニー」、あるいは「クンダリニー覚醒」というのは、ヨガ系の本とか、チャクラがどうのこうのという系の本を読むとよく出てくる用語でして、あるいは臨死体験系の本でも「臨死体験によってクンダリニー覚醒が起こるのではないか」的な文脈で出てくる話なんですけど、実際のところ、どういうものなのかしら?と思って、この本を読んでみたと。 で、本書『クンダリニー』は、クンダリニー覚醒を実体験した人物による自伝でありまして、実際にクンダリニー覚醒が起こるとどういうことになるのか、実体験した人物の口から聞くことができるという意味で、非常に稀有な書物ということになる。何となれば、クンダリニー覚醒については、古いヨガ系の本などに神秘のベールをまとわせた形で曖昧にほのめかされる程度で、実際に最近それを実体験した人の話というのはほとんど存在しないから。 さて、で、クンダリニー覚醒を体験したゴーピ・クリシュナ(1903-84)とは果たしてどんな人物なのか。ヨガの行者なのか、はたまた仏教とかヒンドゥー教の高僧なのか? と思ったら、ただの役所勤めの小役人でした。 ゴーピは、神童とかそういうのではなく、まあそこそこ賢い子として少年時代を過ごすのですが、宗教的傾向はほとんどなく、むしろ宗教上の言説は科学的考察に耐えられないだろうと考える無神論的な傾向すら自ら助長するようなタイプの少年だったと。で、それに加えて教育熱心だった母親の期待を一身に担うのが重荷となったのか、17歳で大学生だった時、学業と関係ない本にうつつを抜かした結果、進級試験に落ちて落第するんですな。で、自分に期待してくれていた母親には申し訳ないし、自分自身不甲斐ないしで、あれこれ悩んだ結果、己を律するための一つの方策として瞑想を始めるわけ。 と言って、どこかの寺で修行してとか、そういうのではなく、いわば本で読んだりした知識に基づき、自分流に結跏趺坐して、夜明け前に瞑想をし、あとは役所勤め(カシミール州公共土木局)のサラリーマンをやるという、ごく普通の社会人だったと。 ところが瞑想を始めて17年が経ち、34歳となった頃、いつものように通勤前のひと時を瞑想に費やしていた時、突然、クンダリニー覚醒が起こったと。その様子は以下のようなものだったそうです:「私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。身体の輪郭もなければ内臓もない。感官からくる感触もなくした。物的障害がまるでなくて、四方八方にどこまでも拡がる空間が同時に意識できるような光の海につかっていた」(7)。 ふうむ、クンダリニー覚醒が起こると、こういう感じになるわけね・・・。 で、これはまさに至福の体験だったそうなのですが、じゃあ、クンダリニー覚醒を体験した人は、その後、とっても幸せになれるのかというと、実は全然違う。もうね、この直後から、ゴーピは七転八倒の苦しみを体験することになります。 端的に言えば、体調の悪化。疲労感は半端なく、体力は無くなり、いかなる意欲も無くなり、食欲も失せてとにかく何も食べられないのでやせ衰え、ゴーピは生死の境をさまようことになるんですな。と言って医者に診て貰っても原因不明で手をこまねくばかり。また、当然、ヨガの本とか、そういうのをむさぼり読んで、古のヨガ行者たちがクンダリニー覚醒をした時にどう対処したか、というようなことを知ろうとするのですが、そんなことを書いた本は一つもなかった。で、結局、ミルク一杯とか、パンを一切れとか、そういったごく少量の食物を2,3時間おきとか、そういう頻度で規則正しく取れば、体の拒絶反応なく食物を体内に入れられるというようなことを自身の身体と相談しながら模索しつつ、ようやく生命の危機を脱するといった始末。 で、そうやって一旦は命拾いしたものの、精神的にも異常をきたし、仕事には身が入らなくなったことをはじめ、妻や我が子に対する愛情すらも感じられなくなるなど対人関係もおかしくなり、そういう面でも塗炭の苦しみを体験することになる。 しかし、ゴーピは真面目な人なので、そういうのもあれこれ自分なりに模索しながら回復に努め、数年かけて身心の健康を取り戻すわけ。そして、不調の間、瞑想的なことをしようという気にもならなかったのですが、健康の回復と共に、また瞑想をしたいという気分も取り戻すようになり、ついうっかりまた瞑想しちゃうと。 そしたら、またクンダリニー覚醒して至福体験をするんですけど、その後、またもや生死の境をさまようようなことになる。 なんかね、この自伝を読んでいると、クンダリニー覚醒ってのは、果たしてそれを体験した人間にとって幸福なことなのか、疑問に思えてくるというね。むしろ罰ゲームみたいじゃない? でも、まあ、そういうとんでもない心身の不調に襲われながらも、クンダリニー覚醒をしたことによって、ゴーピの認識力はアップします。 具体的に言いますと、自分の頭辺りから後光が射しているのが分かるんですと。それから、目にするものすべてが銀色に輝くようになり、実相界の在り様の一端が常に見えているような認識力を獲得したと。ただ、言ってもその程度のことでありまして、ゴーピの場合、クンダリニー覚醒の結果、千里眼を獲得したとか、未来予知ができるようになったとか、病人を治せるようになったとか、そういう超能力を獲得するようなことはなかったのだそうで。 でも、とにもかくにもクンダリニー覚醒をした人間として、一体、自分の中で何が起こったのかを理解しようとゴーピは努めるんですな。そして自分自身の実体験の中から、おそらくこういうことが起こったのだろうということを解明する。 で、それによると、どんな人間にも尾てい骨の突端、生〇器の奥辺りに、クンダリニーと呼ばれる一種のエネルギーが三重にとぐろを巻いた蛇のような形で存在していると。で、普段はそれは眠っている状態なんだけれども、瞑想修行の結果であれ、あるいは人によってはそんな修行をしなくとも、何らかのきっかけで覚醒することがある。で、クンダリニーが活性化すると、背骨の脇辺りを通じて脳天の方にエネルギーの塊が一気に駆け上り、脳髄にドカンと急激なエネルギー充填が起こる。 で、脳髄がこの急激なエネルギーの高まりに耐えられないと、発狂してしまったりする。ハタ・ヨガの実践者が特異な身体の鍛え方をするのは、いざクンダリニー覚醒が起こった時の衝撃に耐えられるだけの体力を保持するためだったんですな(133頁)。で、ゴーピの場合、そこまでの準備もないまま、突然クンダリニー覚醒が起こってしまったので、あのような心身の異常が起こって生死の境をさまようことになったのだと。 ちなみに、クンダリニー覚醒について云々する書物には、身体に備わる6つのチャクラが順に一つずつ開いて行って・・・とか、そういう説明をしているものも多いけど、実際にクンダリニー覚醒したゴーピに言わせると、あのチャクラがどうのこうのというのは、実際に起こることとはあまり関係がないらしい。確かに、その瞬間は背骨に沿って存在するいくつかの神経叢が、駆け上がるエネルギーの奔流に触れてまるで蓮の花の千の花びらが開くように開花していくように感じられるので、そのような説明になるのは分かるけれども、それは実体験を不完全な言葉で描写するとそうなる、というだけの話で、最初にチャクラありき、のものではないのだとか。 ところで、ゴーピの自己観察によると、クンダリニー体験というのは、明らかに人間にとっての「進化」の過程だというのですな。 ゴーピによると、クンダリニー覚醒が尾てい骨の突端、生〇腺の周辺から発生するというのは故無きことではなくて、そもそも進化というのは新しい子孫を生み出すことから来るわけですから、生〇線が重要な役割を果たすのは当然であると。 で、具体的に言えば、生〇腺の分泌が異様に増え、それが原材料となってある物質が精製され、それが進化しつつある体の変化のためのエネルギー源として使われると。その辺り、ゴーピ自身の説明を読んでみましょう: 「私は脊椎下部に、身体全体につながっている神経を刺戟している急速で微細な動きをはっきり感知していたが、これにたいする私の考え方はこうである。つまり、目に見えないある機構の働きで、休眠状態にある器官が、それまで何ともなかったところで急に機能し始め、〇液を高力価の光輝く微細な生命素子に変換させ、脊髄にそう気道や神経線維などを通して、他の方法では達しえない頭脳をはじめ諸器官に送り、それぞれの細胞を賦活させたにちがいない。/(中略)普通人の場合、その中心は固いつぼみの状態にあって、生〇腺からの分泌物にごく微量含まれている高力価の神経滋養素でつちかわれており、通常の生〇器機能に干渉することはない。しかし、進化した個人の場合、その中心が完全に開花して、既存の意識中枢にかわって機能するように仕組まれていて、その活動を維持するためには以前より強力は生命エネルギー源が要求されるので、神経細胞の働きにより特殊器官でごく微量ずつ抽出されては、すぐさま脊椎管を通じて頭脳に輸送されるらしい。/もし、その中心が事故などで機の熟す前に機能しはじめたりすると、神経連絡路が十分整備されておらず、また繊細な脳細胞もまだ強力な生命素子の流れに慣れていないために、破滅的自体が起こる可能性がある。その場合、身体の敏感な組織が回復不可能な損傷を受け、その結果、奇妙な病気になったり、気狂いになったり、あるいは死にいたることさえある。/この種の緊急事態において、破局を避けるために自然に具わっている唯一の道は、〇液に含有されている高貴成分をふんだんに使う以外にはない。その精製成分は、頭脳や神経組織や主要臓器に送りこまれると、事故で損傷したり、死滅しそうな細胞に、肉体の中で生命を救う最も強力な回復滋養剤としての役割を果たすのである」(166-8)(その他、157頁も参照せよ) ホントかね? じゃ、女性の場合はどうなんだろう? まあ、それは置いておいて、先を続けますと、かくしてクンダリニー覚醒をしたゴーピが進化した人間として何か特殊な能力を発揮したかと言いますと、あまりそういう事はないのですけど、一つだけ、一時期、詩を作るようになった、ということがある。 ゴーピはもともと詩を作るような文学青年でもなかったのですが、クンダリニー覚醒体験の後、ある時期、急に詩が作りたくなって、下手な詩をひねっていたんですと。 と、その内、突然、詩の一節がゴーピの前に、それこそネオンサインみたいに降ってきたと。それはゴーピが自分で作るような下手っぴな詩ではなく、すぐれた詩だったというのですな。 で、最初はゴーピの言語たるカシミール語で詩が降ってきたんですけど、そのうちに英語の詩が降ってくるようになり、次にウルドゥ語、パンジャブ語、ペルシャ語となり、ついにはドイツ語の詩が降ってきたと。ゴーピは、カシミール語、英語、ウルドゥ語、パンジャブ語、ペルシャ語までは何とか分かるのですが、さすがにドイツ語は習ったことがないので、最初は面食らうんですけど、とにかくドイツ語の詩が降ってくるんだから仕方がない。で、その後さらにフランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラビア語の詩が降ってくるようになったと。(214-225) ま、これはちょっと「生まれ変わり」言説で出てくる「異語」の話に近づいて来るわけですよ。習ったこともない言語を突然話し出すという。つまり、人間の言語というのは、その人が習ったり学んだりするから話せるようになるのではなく、宇宙の中に「知識の源泉」みたいなものがあって、そこにアクセスするから話せるようになるのであって、根源的にはどんな人間でもあらゆる言語を話せるはずだ、っていう一つの例なわけ。 ま、そうは言っても、降ってくる詩は一部分なもので、それを完成させるためにはそれ相応のエネルギーが要求されることもあり、ゴーピはその後、詩人として立つ、ということはなかったんですけど、このこと一つとっても、この世の天才というのは、本人が自覚するしないは別として、部分的にでもクンダリニー覚醒した結果、宇宙の叡智にアクセスできるようになった人物の謂いである、というのが、ゴーピの確信になっていくと。 で、ならばクンダリニー覚醒するのは、人類の中でもごく一部の選ばれた人たちだけなのかというと、ゴーピ自身はそう考えてはいない。というのも、ゴーピ自身、自分が平凡な人間であることを自覚しているからで、基本、誰でもクンダリーニ覚醒することは出来ると考えているんですな。 で、そういう風に、仮に世界中の人たちがクンダリニー覚醒したら、もう、天才は天才としての働きをするし、凡人は凡人で、宇宙の真理を知り、(戦争や原爆の開発などを続ける)従来の人間の愚かさから脱することは出来るので、世界全体が進化することになる。それこそが、ある意味、宗教の本当の意味なのであって、ならばどうすればクンダリニー覚醒するのか、安全に覚醒するための方法は何か、といったことを、今こそ、真剣に、科学的に探究すべきなのではないか――これが、覚醒体験をしたゴーピが世間の人々に広く伝えたいメッセージであると。本書はこの事を伝えるために書かれたのであり、ゴーピは役所勤めを辞め、クンダリニー覚醒の意義と方法を伝えるための活動に従事するようになるんですな。 とまあ、本書の内容はこんな感じ。 でね、私が思うに、ゴーピがクンダリ二ー覚醒して、大変な思いをしていた頃ってのは、第二次世界大戦の前夜であり、またその後であるわけね。だから、当然、原爆のことも知っていたし、インド国内の民族紛争なども、地方の役人として対処を迫られ、自分の親族もそうした部族紛争の結果、辛酸を舐めたわけですよ。そういう人間の愚かな所業を一方で見ていたことが、このままじゃいかん、人間はもっと進化して、愚かな状態を脱しなければ、という風な思いにつながり、それが自身のクンダリニー覚醒体験とつながって、「人間の進化」というものに思いを馳せるようになったと。 だから、ゴーピの考える「人間の進化」というのは、非常に個人的なわけね。個人が、一人一人の人間が個別に進化することにより、社会全体が進化できると。 はい。この考え方は、何かに似ております。そう、アメリカ1960年代の、ヒッピーたちの「意識改革/意識拡張」の考え方にそっくり。 ヒッピーたちは、当初、LSDなどの薬品を使って意識拡張し、宇宙の真理を悟ることで、社会全体が進化するだろうと考えたわけですが、その頼みの綱のLSDが違法化されてしまう。だもので、それに代わるものとして、アメリカでは1970年代に入ってヨガとか、瞑想とか、ボディワークとか、合気道とか、そういうのが流行し、若者たちはその大本である「東洋思想」というものに傾倒していくわけですが、そんな中、ゴーピ・クリシュナの「クンダリニー覚醒」についての体験記が1970年に出版されたわけでしょ? 当然、飛びつきますわな。 ま、そういう流れの中で、個人改革によって社会改革を成し遂げるというヒッピーの夢が、1970年代の「ポストLSD時代」に、東洋思想という形をとってアメリカ社会に流行していった。まあ、そういうことだったんじゃないでしょうか。 ということで、この本がアメリカ社会に対して与えたインパクトの意味とか、そういうことが分かったので、私としては読んで非常にためになる本でありました。これこれ! ↓クンダリニー [ ゴーピ・クリシュナ ]