高桑和巳著『哲学で抵抗する』を読む
評判がいいので、つい高桑和巳さんの書かれた『哲学で抵抗する』という本を読んでしまいました。哲学の本なのに、アメリカ作家カート・ヴォネガットに言及しているということで、その辺、どういう風な文脈で語っているのかなと。 で、本書冒頭、高桑さんは、哲学っていうと敷居が高いような感じがするだろうけれども、哲学史に名を連ねる高名な哲学者の著書を読むこなすことのみが哲学することではないし、特別な才能や教養がなければ哲学することは出来ないというものでもない、ってな心強いことをおっしゃるわけ。 では高桑さん自身が考える哲学の定義はというと、「哲学とは、概念を云々することで世界の認識を更新する知的な抵抗」であると。 ふうむ。知的な抵抗ねえ・・・。 で、以下、具体例を示しながら、知的な抵抗とは何をすることであるかを説明してくれるわけですが、例として挙がっているのは、古代ローマの奴隷反乱の話、イタリアの漁民反乱の話、アイヌ民族の抗議運動の話、ドレスデン爆撃批判の話、そしてキング牧師の公民権運動の話と、結局すべてが何らかの抗議運動の話なのよ。 もちろん抗議運動が生じるということは、現状に不満があるからで、現状に不満を持つということは、その現状を作っているお上とか、権力者とか、社会常識に対して「それ、違うんじゃないの?」という疑問を持つことが発端となっているはず。 だから、その現状への疑問から「そうじゃないのではないか?」という新しい認識を持ち、その認識に従って(効果が上がるかどうかは二の次として)とりあえず抗議運動をする。その新たな認識と抗議運動、これが哲学だと。だから、哲学ってのは特別なことではなくて、ごく普通の人がごく普通にやろうと思えばできることだと。 とまあ、それが高桑さんの主張なんですけれども。 だけど・・・。それって、「哲学」っていうよりは、普通に「抗議」じゃね? っていうね。もちろん抗議をすることも大事な時があるけど、それはあくまで「抗議」であって、別にそれに「哲学」っていう別な名前を付けなくてもよくね? ということで、私個人としては、この本を読んで、「ああそうだ! これこそが哲学だ!」と言った新しい認識にたどり着くといったことはまったくありませんでした。ヴォネガットの話やキング牧師の話に新味はないし、私が知らなかった話題についても、ごく常識的な解釈で、「ふーん」で終わってしまう。少なくとも「目からウロコ!」っていう感じではなかった。 それから、書き方もね・・・。一見、堅苦しい哲学のイメージを払拭しようとしているように見えるし、言葉遣いも「です・ます調」で一貫しているんだけど、仔細に観ていくと、結局、高所から教えを垂れるという感じにはなっているのよ。知らない人に教えてあげましょうっていう。 いや、もちろんね、教養書なんだし、本と言うのは基本的に、知っている人が知らない人にモノを教えるというスタンスで書くものなんだけどさ。それにしても、何だろう、面白いことを見つけた人が、「ねえねえ、これ面白いよ!」って教える感じ、いわば「水平に教える」感じならいいんだけど、やっぱりこの本は「君、こういうこと知らないだろうから教えてあげる」っていう「垂直に教える」感じがあるのよ。でまた、そういうのを隠そうとしている意図が見え見えで、見え見えなだけに余計鼻につくというか。 あと、まあ強いて言うと、情報量が少なすぎる。取り上げた話題の分、つまり10個くらいしか情報ないんだもん。私だったら、これでもかっていうくらい、もっともっと情報をぶっこむな。 でもね、世評を見ると、すごく評判はいいらしい。まあ、私はいつも世評とは気が合わないからね。だから、私があまりお勧めする気にならないとなると、世間的には、この本に大感動しちゃう人は沢山いるはず。そういう人がいることは、素晴らしいことだよね! ま、そんな感じ。だから世間的にはすっごくいい本だと思います。これこれ! ↓哲学で抵抗する (集英社新書) [ 高桑 和巳 ]