ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』を読む
今日で7月も終わりか・・・。やけに早いな。この調子じゃ、もうすぐ来年じゃないか・・・。 さて、今日も今日とて原稿書き、ではあるのですが、あんまり長時間ワープロの前に座っていてもアレなので、食後の小一時間とか、そういう細切れの時間にルシア・ベルリンの短編集『すべての月、すべての年』を読んでおります。これこれ! ↓すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集 [ ルシア・ベルリン ] 相変わらず、表紙に記されたルシア・ベルリンご本人の写真を見ると、べっぴんさんですなあ。女優さんじゃん、これ。 で、この『すべての月、すべての年』は、話題となった前作『掃除婦のための手引き書』と同じ短編集に収められた短篇を集めたもので、要するにこの二つの翻訳をくっつけると原書になるというシロモノ。その意味で、『掃除婦のための手引き書』とまったくレベルの変わらない短篇集ということができる。 で、『掃除婦のための手引き書』も前に読んで、それなりに面白かったのだけれど、今回の『すべての月、すべての年』もそれなりに面白いです。 ですが・・・。 うーん、どうなんだろう。この作家の作品は、私にとって本当に面白いのだろうか? 傑作と言い切るほど、私は買っているだろうか? そういう疑問が出るくらいだから、実はそれほど買ってないんだろうね。自分としては。 読書好きの人で、ルシア・ベルリンが好きという人は沢山居ると思うのだけど、そういう人たちが持ち上げれば持ち上げるほど、それほどのもんか? という気がしてくるのは、私の天邪鬼のなせるわざか。 そうかも知れないけど、何だろう、彼女の作品には何かが足りない気がする。 何だろう。ユーモアかな。切実さかな。いずれにせよ、なんか、中途半端な感じがする。普通、というか。突き抜けたものがない、というか。 アメリカのモーテルの部屋にかかっている絵みたい。一見、きれいで、パッと見、センスがいいように見えるんだけど、よくよく考え、よくよく見たら、やっぱり安物だった、というような。そういう安モーテルに、本物のエドワード・ホッパーは掛かってないわけだよね。せいぜい、ジョージア・オキーフの印刷版がいいところで。 たまたま思いついただけだけど、ジョージア・オキーフの印刷版ってのは、良い譬えかもね。オキーフもニュー・メキシコだし。 例えば、ルシア・ベルリンって研究対象になるのかな、と言ったらどうだろう。「なる」って自信をもって答えられるプロのアメ文研究者ってどのくらいいるだろう? ま、そんな感じで、面白いのか、それほどでもないのか、と思いながら、それなりに面白く読んでいるのでした。