|
カテゴリ:カテゴリ未分類
ブログという世界は、「勝手気侭であっていい、管理者の思いの世界だから、なんでもありなのだ」という意見が結構あります。
それはそうだと思います。でもちょっと待ってくださいな!ブログとは、言葉を理解するために、Wikipediaの記述を引用しますと、『狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種である。「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった。』 つまり、どう見ても公開を旨とした記録の世界です、ですから、私的なノート上の記述である日記とは性格が異なるのです。 コメントを受け付けるかどうかは、もちろん管理者の勝手な世界です。しかし、不特定多数の来訪者の眼を意識しなければならないのは、当然の話です。勘違いはいけません。 「俺」という自分を指しての表現がありますが、これを好んでブログ上の記述に用いる人がいます。 この表現も、大いに問題があります。なぜならば、「俺」とは、『主に男性が、どうはい同輩や目下の者に対して用いる、自分・私という意味だからです。 不特定多数の閲覧者には、当然管理者に対して、同輩・目下の者以外の人が誠に多く含まれているわけで、ブログで用いる表現としては、不適切にもほどがあると言うことです。 「あげる」も濫用されています。テレビ出演者なども、目いっぱいこれを遣って居ますから、当り前に感じられているのかもしれませんね。 しかし、「あげる」は謙譲表現とするための変換語なのですから、作られた表現は謙譲表現です。多く用いられる例としては、「花に水を上げる」であり、「子供に買ってあげる」であり、「孫にしてあげる」であり、「犬猫に食べさせてあげる」と言う具合ですが、これらの対象(敬う相手以外)に謙譲表現を用いて、紹介発言してはいけません。 これに似た話ですが、三人称が自分の身内である場合の表現も、問題含みです。 「おくさん・だんなさん・おかあさん・おとうさん・おばあちゃん・おじいちゃん・○○ちゃん・などなど」。 言葉が幾ら流動的であり、変化が当然とする国文学者の発言も確かにありますが、日本語の基本姿勢を崩す方向を挙って進めるのは、どうにもおかしいことです。 経済面でも乗っ取られ、国民の構成人員でも乗っ取られ、国際競争力でも乗っ取られ、挙句の果ては文化まで乗っ取られるのですか? 国政に対して悲嘆の声を上げるなら、文化の衰退にも悲嘆したいところです。 何時もながらの厭な発言かもしれませんが、なんだかまた思い出してしまって、申し訳ないです。 夢では、遣らねばならぬことが頭をもたげて、各種の夢見の中で、散々あせっておりました。テーマは明確この上もなし。はいもちろん精神世界です。 己の本心のありどころが、まざまざと見せつけられました。 何時も阿呆みたいに話し続けている、カメラのことなど、これっぽっちも出てまいりませんことよ! 精神世界、これほど難儀な世界も珍しいです。 生まれて来し此の方、大雑把にいえば、一年のうち1/3は動き、1/3は考え、1/3は眠る人間の生活、つまりは、見える範囲だけでも、生きる1/3は精神世界と付き合っているわけで、眠る間の精神活動も含めれば、そして動いて居る時の精神活動を含めれば、恐らく生活の1/2を精神世界と関わっているわけです。 でも、そのかかわりおおき精神世界を、殆どの人が理解していない、ましてやその世界を有効化することに心を砕く、そんな動静に関わる御仁の人口や如何に?微々たるものではないでしょうか(推測)? 経済的に、おしりに火が付いたごとく追い立てられて、走り続けなければならない渦中の人は物凄く多いでしょう、ですから、無理もない話、精神世界に関しああだこうだと、首を突っ込む暇なんかねえやい!ですよね。 がしかし、敢えて突っ込まなければいけないんです。人間はなぜ存在するのか?それから逃げてはいけません。しっかり関わりを持って生きる、それがこの世にある所以に違いないのですから。間違ってはいけません。 昨晩は可なり冷えた感じで、タオルケット一枚で眠りに就きましたが、窓を開けていたために、寒いほどになり、更に夏掛けを重ねることになりました。窓を閉めると、なんだか空気が淀んでしまいそうで、蒲団の助けを借りました。 日中はまだまだ気温が上がるそうですが、夜半の戸外は虫の声が盛んになり、事実上バッチリ秋の気配の深まりを感じますねえ。 暑い暑いの連日でしたが、こうなって見ると、今度はもう風邪をひかないようにと心配しなけれがなりませんねえ。 喉元過ぎてしまえば暑さを忘れている、あの暑さが嘘の様です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|