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カテゴリ:雑談
季語の世界では元々秋の蝉というものがあります、夏の季語である蝉に「秋」をつけることで、その趣を微妙に調整するのです。
蜩や法師蝉となれば、秋に分類されていて、そのままで秋です。蝉とだけ言えば夏の蝉全般を指し、秋の季語入りをしているものは除かれます。 今日秋の油蝉が声高に声を立てています。みんみん蝉に法師蝉も聞かれます。いよいよ秋たけなわの様相です。 室温も結構高い今日ですが、家族がエアコンから良くない匂いが出ているというので、春実施したことのやり直しで、暖房MAX運転をしたものですから、さらに暑さが増しました。 年間を通してミヒャエルのような俳句人間は、暦や歳時記に準じた生き方をしていまして、感覚もその記述に従ったものとなっています。 一般の人ではそういうことはなく、暑い暑いといえばいくら私が秋だと強調しても構わず夏・夏と言い続けます、私にしたらなんと無神経な!ですが、それが普通なのでしょうね。 でも私はそうではないので、秋に入っていくら暑くても夏は終わっているので、暑い暑い夏だ夏だ、と言われ、ちょっと気温低下を感じるとそこでやっと「秋が来そうだ!」などと言う話を聞くと、なんだか帰ってクソ暑い感じがしてしまいます。 人間の心の機微に関しても同じことが言えます。日頃季節の移ろいを小さな変化の兆しから感じ取れない人は、とかく発言も大雑把だ!と私は勝手に思っています。 いくら暑くても立秋をすぎれば日本は秋です。温暖化が進んで、この傾向がこのまま続きさらに大きくなってきたりしたら、日本の四季すらも消えるかもしれません、その場合は日本の四季の機微やわびさびを共にしてきた俳句そのものも既に成り立たなくなるでしょう。 その時には俳句も身売り先を考えねばならないでしょう。または俳句の世界を構築し直して、四季を基本的考えにすえないで、三季式とか二季式としてあ見直さねばならないでしょう。その時まではやはり現存の歳時記に従うことになります。 今日発言するとすれば、日本人なら「秋が深まってきました」であり「秋めいてきました」であって、けっして「ようはくあきがきました」や「やっと秋らしさが訪れました」ってことはありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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