一人で飲む一時間の幸せのあとに、ちょっと人恋しくなって誰かあのドアをあけてくれないだろうかと思っていると、それを見透かしたように友人夫妻が訪れることもある。
いつも以上に饒舌になり、愉快な時間をすごし、帰りたくはないんだけど、なんとなく帰る時刻が来たなというお告げのようなものを感じて帰る。
眼を細めないと見極められないほどに収束する街燈の列と、真上から照らすほとんどまん丸の月に見守られながらかえる道。
靴音と、iPodから流れるラベルのピアノと、少し速まった鼓動を聞きながら、
膀胱の訴える焦燥感をなだめつつ、
現実と非現実の境界を綱渡りする。
楽しさや懐かしさにさいなまれ、悲しさと切なさに癒され、友情の暖かさを憂い、孤独の寒さをいつくしむ。
こういう酔い方は日常だったのに、最近はこの感覚から遠ざかっていたように思う。つまり、いつもの自分に戻ったという感覚。それはいいのか悪いのかはわからないけれども、馴染んだ感覚なのでとても居心地が良い。
たぶん、自分の中で、もちろん完全ではないけれども、現時点で到達できる限界に近い思想が見えたからかもしれない。
それはまた数年後に塗り替えられるかもしれないし、もしかしたら数日後に塗り替えられてしまうのかもしれないけれど、今夜のお月様が真上にある時点で、納得がいくというか妥協できるというか、そういう中継点を通過したからではないかと思う。たぶん、きっと、なんとなく。
あるいは逆に、そんな絶妙の酔い加減がそう錯覚させているのかもしれないのだが。
結局それは、自分自身ではわかり得ぬことだし。
そして、それを批判するでもなく、誉めるわけでもなく、ただ無関心に照らしているお月様の光がとてもありがたいのだ。
今夜も絵はない。