友人が死んでから、よく会ったバー巣ごもりをなんとなく避けていた。今夜、その巣ごもりでフラメンコライブがあって、何か月ぶりかで行ってみた。
バイレ(踊り手)は、衣装を脱げば、普通の人なんだけれども、踊っているときは、部分的に人間の範疇から片足踏み越えていて、一種の化け物であった。
最近は化け物女に会うことが多い。 これは飛び入りで踊りだした化け物の一人。
昨夜は、なんとなく現時点での中間的結論(一時的悟り)を得たと思ったのだけれど、すぐにそれが錯覚であったことを知る。
まあ、とにかく、女ってやつは化け狐だ。
酔えば酔うほど、真実に向けて収束していく粒子加速器の気分を味わうこともあるけれども、その金属の塊がどろっとメタモルフォーゼしてエントロピーの法則なんぞ無視してカオスに散っていくこともある。
フラメンコの腰や指先に官能していても、たまにオーレッとか発してみても、踊ったり歌ったりしているのは僕自身ではない。
まるで僕自身が舞って声を張り上げているような気がしてしまうのは、錯覚でしかないのである。
例えば帰り道のキッスになんの味もしないと思うことは、そのキスは現実であっても現実ではない。
無駄なキス。
ウーム、何を書いてるのか、よくわからなくなってきた。
とりあえず今夜は、そういうわけで、一瞬でも生きている生々しさを実感できたので、明日生きる意味は不明だけれども、今夜生きた意味はあったような気がしているってことでOK牧場としよう。
オーッレッ、そう口出してみれば明らかだ。
人生に生きる意味などない、意味があるとしたら死ぬ意味だけだ。あるいは、生きた意味だけだ。それは、画家は死んでからが勝負であるように、人はみな死んでから他の人に生きた意味をみつけてもらえればラッキーなのであり、生きている最中には意味などないのだ。