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テーマ:夢を叶える人になる(1222)
カテゴリ:人生
過激な題名で ごめんちゃいm( __ __ )m 昨年末から 正月3日まで 家を留守にしていた 悪妻でした _| ̄|○ガックリ・・ m(*- -*)mス・スイマセーン そんな わけで 一念発起して (T▽T)アハハ! w川・o・川w オォーーー!!掃除を しました。なはは、、、(;゚(エ)゚) アセアセ きくちゆみさんのブログに書いてあったことを思い出しました。 それがガラクタかどうかを見分けるコツは、紙に書いて、デスクの前に張りました。 1、これを見たり思い出したりしたら、わたしは元気になるかしら? 2、私は心から、これが好き? 3、本当に、使っている? この3つに「イエス」といえないならば、それはガラクタ。この基準で判断すると、この家を占有しているほとんどのものがガラクタの可能性が・・・(ショック)。あなたもやってみてください。 片付けている最中に ふと 思いついたのです。 私が明日 生きていないとしたら この品物は 必要だろうかと、、、 いつか必要 いつか使うと 思ってためていたものが いっぱい、、、、(((ρT-T)ρオヨヨ もう きっぱり 捨てることにしました! (*^o^*)サ(*^_^*)ヨ(*^O^*)ウ(*^_^*)ナ(*^O^*)ラ~~~~~~ 私の過去 私の思い出 今に 生きていこう♪ 過去にとらわれず 今を 懸命に 生きていこう♪ 迷ったら、、、、これは 私が明日死んでも必要? と 考えたら 簡単に捨てられました♪ (*^m^*) ムフッ 執着を手放そう~~~~~~~~~♪ さて ばったばったと 掃除して 疲れて 休憩したらガンジーの映画のDVDが出てきたので 観ました♪_(^^;)ゞ 感慨深い映画でした♪ そして こんなサイトを見つけました♪ ガンジーの言葉 所有しないということ 息子に宛てた手紙 1930年8月26日 所有しないということは、盗まないということ同じである。 もともと盗んだわけではなくても、必要のないのに所有している物はやはり盗んだものに分類される。 所有することは将来に備えることである。 真実を追い求める者、愛の規律に従う者は、明日のために何かを取っておくことなどできないはずである。 神は、明日を考えて蓄えることは決してしない。 神は、この瞬間に必要な物だけしか作られない。 であるから、神が与えてくださるものに信頼を置くのなら、日毎の糧、つまり必要とするすべてのものを神が毎日与えてくださることを確信すべきである。 聖者、信仰のあつい者は必ず、経験からこのことが正しいことに気づくのである。 毎日必ず日毎の糧は与えるがそれ以上は与えないという神の法を無視し注意を払わないがために、不平等が生じそれに付随してあらゆる惨劇が起こるのである。 金持ちは、必要もない物をあり余るほど持ち、そのためそれらのものは注意される事なく無駄にされてしまっている。 一方で、何百万もの人々が食料も手に入らず飢えて死に瀕している。 もし、各自が必要とする物だけを持つようにすれば、誰も欠乏する者がなく、みんな満足して暮らせる。実際、金持ちも貧乏な者と同じくらい不満の固まりである。 貧しい者は億万長者になろうと欲し、億万長者はさらにもっとすごい億万長者になろうとしている。貧しい者は、たとえ毎日の必需品が手に入ったとしても、もはや満足しない。 もちろん、毎日の生活に必要なだけの物を手にする権利が彼らにはある。 そして、彼らがそれを満たせるよう助けるのが社会の義務である。 金持ちは、満足の精神が世界中に行き渡ることを考えて、率先して物を手放すべきである。 彼らが、自分たちの所有物を適切な範囲にとどめておきさえすれば、飢える者たちは容易に食料を与えられ、金持ちの行いから満足するとはどういうことかを学ぶことになるのである。 所有しないことの完全な理想的状態は、人間が鳥のように、頭上に屋根を持たず、装わず、明日のための食料も一切貯蔵しないこととなるであろう。 日毎の糧は間違いなく必要なものではあるが、それを与えるのは神の仕事であって、人のやることではない。 仮にできたとしても非常に非常に非常に少数の者にしか、この理想の状態に到達することはできないであろう。 凡人である我ら求道者は、不可能に思われるからといって挫けてしまうことはない。 そうではなくて、この理想を常に我らの前に置き、そしてその光の元で自分たちが所有している物を厳しく吟味し、所有物を減らすように努めるべきである。 文明は、その本当の意味では、増し加えることではなく、意図的、自発的に欲望を減らしていくことである。 このことのみが、本当の幸福、満足をもたらすことができ、奉仕の器を広げることができる。 この基準から判断すると、アシュラムで我々は、必要性が証明できない多くの物を所有していることがわかる。そこで、我々は近隣の者たちがこっそりと盗んでいけるように仕向けている。 もし人がやろうと思いさえすれば、自分の欲望を減らすことができ、欲望が減るにつれて、人はより幸福になり、より多くの平安が得られ健康も増進する。純粋な真理に立つならば、体もまた所有物である。 快楽を求める欲求が魂のために体を造り、それを保っていると言われているが、全くその通りである。 この欲求がなくなると同時にもはや体を必要とすることもなくなり、輪廻の悪循環から開放されるのである。 魂は時空を越えるものである。 どうして檻のような体に入れられることを好むであろうか。 さらには、その檻のために悪いことを行ったり、殺人を犯すようなことを好むであろうか。 このようにして、我々は完全な放棄という理想に到達し、体をそれが存在する限り奉仕のために用いることを学ぶようになる。 そして、ついにはパンではなく奉仕が我々にとって命の糧となるのである。 奉仕のためだけに我々は、食べ、飲み、眠り、起きるのである。 心をそのような状態にすることで本当の幸福がもたらされ、定めの時に喜ばしい光景を目にすることができるのである。我々は皆この観点から自分自身を顧みるべきである。 所有しないということは、物だけでなく思考にもあてはまることを覚えておきなさい。 どうでも良いことで頭を一杯にしている人は、その計り知れない原理を破っている。 我々を神から離れさせる考え、我々を神に向かわせない考えは不要の所有物である。 それらは我々の行く手を遮る物となる。この関連から我々は、ギ-タの13章にある知識の定義を考えてみよう。 そこでは謙遜(amanitvam) こそ知でありそれ以外のものはすべて無知であると言われている。 もしこれが真実であるならば、そして真実であることに疑いの余地はないのだが、今日我々が知識と思っているものの大半は単なる無知に過ぎない。 そして、それ故、何らかの利益を与える代わりに害をなすのである。 そのような知識と思われているもののために、精神はさまよい、目的を失ったものとなってしまっている。 そして、不満が蔓延し、悪の種は尽きることがない。 言うまでもないことだが、私は何もするなと言っているのではない。 人生の何時いかなる時も、心または体が活動している。 しかし、その活動はSATTVIK であるべきだ。つまり真実へと向かうものでなければならない。 人生を奉仕に捧げようと決心した者は一時たりともぼんやりしていることはできないはずだ。 しかし、我々は活動において善と悪を区別することを学ばねばならない。 ただ奉仕にのみ献身していく中で、おのずとこのふたつの区別がつけられるようになっていく。 モノも カラダも ココロ も 軽くして 新しい世紀へ 上昇していこうd(゚ー゚*)ネッ!♪ 私の大掃除は まだまだ続く、、、、♪ ☆:*:・°★:*:・°☆:*:・°★:*:・°☆:*:・°★:*:・°☆:*:・°★:*:・° MIXIに入っている方はこちらにコメントを♪http://mixi.jp/show_friend.pl?id=718993 携帯で見ているかたのために♪ ソウルヒーリングらいらっくhttp://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/s-rairakku/ 携帯版 楽天日記http://plz.rakuten.co.jp/pukuchie/ ソウルヒーリングらいらっく ispotの らいらっく♪ http://salon.ispot.jp/s/rairakku/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.08 20:50:41
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