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カテゴリ:泣きの涙のアカデミック
大学の教師陣のスキル向上を目的としたパネルディスカッションにパネルの一人として参加した。
最初に留学生課から依頼のメールが来た時には(1)私にはそんな力量も英語力もありません(2)だいたい、なんで私なんですか。他にもっと適役の方が大勢いらっしゃるはずです(3)何より忙しいので、と断ったのだが、先方もあちこちで断られて困っていたのか、(1)英語ができなくても大丈夫です(2)英語学校があなたを推薦してきました(3)忙しいのはどうにかしてください、となんとも強硬な返事。 たいがいなやりとりだが、英語学校のアドバイザーには公私共にお世話にもなってもいるし・・・くぅぅ、断れない(涙) 体調の悪さも手伝って、準備に割けた時間は4時間弱となんともいい加減だが、英語学校が私の名前を出したということは、期待されている役回りは英語学校の初級レベルから始めて修士課程へ入り、未だ英語に苦労しまくっているというところであって、そんなに高尚なものを求められているわけではない。12月に英語学校のパーティでしたスピーチの原稿を元に、いくつか論点を整理しておく程度の準備にとどまった。 準備しながら、パネルディスカッションは、主題がわかっていてもどこへ話しの筋が派生するかわからないから、準備が非常に煩雑で難しいことを発見。日本語ならなんとかなるのだろうが、英語だと私の能力では“思いつき”が通用しないためだ。 風邪ぼけの脳みそを、風邪薬でさらにボケボケにして、事前打ち合わせに続き、2時半からのセッションに突入。 聞いていた通りパネルは、留学生側はブラジル人の博士学生、コスタ・リカ人の修士学生と私の3人、教授側は2人。進行役は留学生課のディレクターと英語学校のプロ・インストラクター(実は彼女が私の名前を出した張本人!)だった。 この留学生課のディレクターという人がスゴイ人で、昨秋インターンをしたローカル草の根団体が主催した彼の講演を聞いたのだが、留学生がいかに大学コミュニティにとって大切なものであるかを筋道をたてて論陣を展開し説明していた。“世界と仲良くするため”といった漠然としたアイディアでは、猜疑心を持っている人の見解を変えることはできない。実質的、具体的、そして多角的な理由が必要になる。彼の講演はそういった要素を盛り込んだものだった。 ちなみに今日のパネルを最終的に引き受けたのは、彼が進行役であることがわかっていたからでもあった。期待していたとおり、パネルが終わってから少し話す時間があったので『非常に実質的な説得論を用意されているのは、やはりこのコミュニティにも留学生の存在や留学生受け入れにかかる費用などに対して否定的な人たちが少なくないからでしょうか』と聞いてみたら、『そういうところもあります。こんなに多様性のあるコミュニティでもなかなか大変なんですよ』と仰っていた。 パネルは、留学生の多くはなぜ授業中の質問をしないのか、というトピックから始まった。英語力が足りないということだけでも、ボキャブラリーの不足から発音の問題まで分析すれば原因は複数ある。また文化の違いという点からいけば、目上に(多数の)質問をするということを避けるヒエラルキーの高い文化背景出身者特有の傾向もあるし、また受動な学習体制がしみついている、ということも考えられる。さらには、全部聞こえていれば、或いはテキストや資料を念入りに読めば(或いは読み間違えなければ)書いてある“かもしれない”ことを質問するのはためらわれるという感覚もある。 私の場合、このためらいは今も消えない。与えられているもの、わかっているべきものを理解するのは分析力や創造力以前の問題のはずだが、それができているという確信が持てることは稀である。話が脇に逸れるが、同様な思考パターンとして、自分が知らないだけで、すでに誰かがどこかですでに熟考したり研究したりしているであろうことを知りながら論じたり、それについて質問したりすることも非常に苦手である。 実際、開発関係のクラスの宿題に手こずるのはそこに原因がある。私が考える程度のことは現場の人達やどこかの研究者がとっくに考えているハズで、それをまだ私が読んだり勉強したりしていないだけである。理想論だけで物事を語れるほどナイーブでもないし、かといって現実にある矛盾を仕方なしと思っているわけでもない。自分の中でもそこははっきりしている。が、多くの人がすでにその間で模索をくり返してきているはずで、それでもなお答えなど出ないから決定打がないのではないか。理論も議論も一通りは出尽くしているはずであり、それゆえ、開発の歴史のあらましを学んだ時に、半世紀で理論とその模索が一巡したという記述を読んで妙に納得もした。それを、まだ自分が不勉強で知らないだけだ。 だから、書かれていることに対して何か書けといわれたり、読後に考えたことを書けと言われるのは非常に苦手なのだ。先週の宿題でも、genderについて書け、にはまいった。多少は読んでいたとしても机の上でチョロチョロっと考えて書くことの無意味感が先にたってどうにも考えがまとまらないのだ。クラスメートの中には、全然別の側面から上手にアプローチして書いている人もいるから感心して拝読するのだけど自分のパフォーマンスは惨憺たるもの。考えること、それを書くことの教育的見地からの有効性を無視するわけでもないが、どうにもこうにも。結局しょーもない、関連性の薄いことを書いてお茶を濁したが、いつもどおりの後味の悪さだった。 話をパネルに戻すと、次に出てきたのは、どうすれば留学生が教師側のアシストを求めやすい関係や環境を作れるか、というトピックから、留学生に対し典型的なアメリカ的教育姿勢のままに、『キミの英語に問題はない』『上手だから気にせずガンバレ』と褒めたり励ましたりするばかりでなく、時にはある程度直接的に英語能力についても指摘し、英語社会でやっていけるように向上を目ざさせることも教師の責任である、というテーマに移っていった。パネルとして参加していた教授陣からも一日中、同国人同士、同国語で話してばかりいる留学生の事例がいくつか挙げられた。 グループプロジェクトなどのチームをどう決めているか、という方法などの情報も交換されたし、留学生側からもアメリカ人ばかりの中に交じるのは大変だが、そのチャレンジは必要なことだとも感じているという見解を説明し、speakingではなかなかアイディアが説明できなくても、writingでは説明ができるから、オンラインやチャット、e-mailを活用してプロジェクトに加わっていくといった工夫もしてサバイバルを試みていることも紹介した。 当初2時間半は長いと思ったが、どんどんディスカッションも進むし、途切れることなく次々トピックが出されるのであっという間に過ぎていった。が、熱心な教師陣の発言を見ながら、パラドクスも感じていた。ここに来ている人たちは、留学生の意義についてもかなりポジティブだし、もうすでにかなりの経験もあり、問題点についての高い認識もある。だからここに来ているのだ。が、留学生受け入れとその教育促進、という点で障害になりそうな教師というのはこの場には来ない。言葉の違い、文化の違い、習慣の違いがもたらす困難と、それを取り込んだ多様性の持つ意義を本当に知るべき人はこの場には来ないだろう。こういったイベントは非常に大事な取り組みではあるけれど、足元に潜んでいる問題の解決策にはなりえない。 パネルの最中、少なく見積もっても二度はしゃべってる途中に英語を見失い、盛大に冷汗をかいたせいか、風邪薬ボケの頭もパネルが終わって部屋に帰りつくまでは結構しっかりしていた。そのかわり、部屋へついたらバタンキュー。どうにか風邪薬だけは飲んで7時にはベッドにもぐりこみ、12時過ぎまでぐっすり眠る。そして今度は眠れず。宿題を片付けてもまだ眠れず、日記を書くことにした。もうじき夜明け。午後イチにミーティングがあるからもう少し眠っておかなくては。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
February 16, 2005 09:02:55 PM
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