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カテゴリ:LIAママのひとりごと
私(ママ)はじいちゃん子だ。
両親が共稼ぎだったため 幼稚園に入る5歳まで家でおじいちゃんに育てられたといっても過言ではない。 しかも・・ 私は初孫。じいちゃんは私のために仕事を辞めて子守に専念した。当時60歳。 家には祖母がいない。祖母は私が生まれるずぅーっと前になくなっている。 男のじいちゃんが 離乳食講座へいき、離乳食をつくり 食べせてくれた。パンパースも出始めの時代。 かれこれ27年前。 布オムツが主流のころ。 私のオムツはずれは1歳。 現在私が自分が子育てをしていても 娘2歳だがオムツが外れる気配は・・ない。 そう思うとすごいとおもうし、実の子どもを育てるのも大変だって思うしイライラするのに じいちゃんはよく 私と妹(3.5歳離れている)を家で 育ててくれたとおもう。 私の時代は幼稚園1年だけなので保育園に行く人もあまりいなかった。 なので幼稚園に入るまでは自宅で祖父母と過ごすのが当たり前の時代だけど・・・それでも 子どもを面倒みるって大変。 そんな祖父が8月17日急にこの世を去った。 全く前兆がなくおそらく本人も死ぬと思っていなかったはず。 だっていつも「オレは100歳まで生きる!!」って豪語していたし、私達(私と妹)は冗談で「100歳までいぎだら100万円頂戴ね」って言ったら「はいはい」って言ってたくらい。 8月15日は市の夏祭り。 山車にご祝儀を渡すために門口へでて山車をひっぱる子ども達に声援を送っていた。 確かに食は細くなったけど痛い・食べたくないなどは言わなかった。しかも私の記憶では一度も入院はしたことがない。 風邪を引くことも滅多になく通院すら数えるくらいだと思う。「どごも悪ぐねがす」と健康診断も受けない。そんな健康体のじいちゃんが 朝起きてこなかった。 ドラマのようだ。 17日の朝、いつものように6時に新聞を門口まで取りに行き(家から門口まで100mくらいある)7時の朝食まで時間があるので自分の部屋で休んでいたらしい。寝巻きから普段着に着替えてあり、テレビがつけっぱなしだった。 7時前にリビングに来るはずのじいちゃんがこないので 母が声をかけに行ったら いつもテレビを見る格好で 口を開けて寝ていたように見えた。 声をかけたが反応がなく そのとき既になくなっていたらしい。 しかし母の実父。認めたくなかったらしく救急車をよぶなどは考えられず(死んだ人は救急車は運ばないと思っていたし)隣の元看護婦だったおばちゃんを呼んでダメだなって確認をとったらしい。(そのおばちゃんも救急車って言えばよかったのにぃ)死亡診断書を書いてもらいに医者を連れてこようとしたら祖父は全く病院にかかっていないので医者が自宅へはいけませんといいだしそこからまたややこしいことに 自宅でなくなった場合は警察がよばれて事情徴収があるみらい。 刑事さんがきて写真をとったりと 結局救急車を呼ぶよういわれて呼んだが、まだ暖かく判断つかないということで、なくなっている祖父を病院へ搬送しそこで死亡確認がされた。 それから慌しく3日で火葬・葬儀まで済ませた。 今日は初七日。 まだ祖父がなくなった気がしない。 というか、死んだのを信じられないし信じたくない。 私も実家からアパートは20分程度の距離に住んでいるが いずれは実家に同居予定で住所は実家にある。 なのでじいちゃんは ひ孫にあたる私の娘に 「LIAの家はここだがらなー」っていつも言う。 うちはLIAが17代目。歴史ある家。 そういう昔話もしっかり聞いておけばよかったとちょっと後悔。家計図があるというので落ち着いたら探してみたいと思っている。 伊達政宗の金庫番武士で代々歴史がある家なので 歴史に興味ある私はとても自分の家がほこらしい。 おじいちゃん ごめんね。いつもはなしてくれるんだけど「そのうちゆっくりきくから」とあまり真剣に聞かなかった。 そのうちそのうちって人はいつ死ぬか分からないものだとつくづく思った。これからは思ったことはしておこう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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