テーマ:夢を叶える人になる(1190)
カテゴリ:あほ天日記
でもホリスティック教育関係の本を読んでいて、 芸術家である自分と教育者としての自分がずいぶん重なってきたように思います。 そもそも「自分は何か」というレッテルは必要ないのかもしれません。 レッテルとしてではなく、何のために~という大きな目標があれば、 自分が何者なのかは認識できてきて、 教育活動も芸術活動も真実の自分で、出来るような気がします。 真実の自己認識ができていれば、 行動のチャンネルを変えるのは、案外容易なことだったりしますね。 「森と牧場のある学校」より~ 親も教師も「あの子は発言しない子だ」と思っていた子が、 必死になって、発言しようとしている姿が見られた。 音楽で、歌えないと思っていた子が、いつの間にか自然に歌うようになってきている。 花座敷の中には、そんな子どもの姿があった。 友達をいじめる子どもは、仮の歪んだ姿であった。 発表しない子、歌えない子も、仮の姿であった。 教師やまわりの雰囲気が、そうさせていたのだろう。 このような花座敷の子どもを見たら、教師は自分のやっている教育を、 改めて考え直さなくてはならない。 それどころか、教師自身の価値観や人間観、教育観を変えなければならなくなる。 それは、とてもたいへんなことなのである。 花座敷は見ないほうが、楽である。 価値観を変え、自分が脱皮し、成長していくというのは、つらいことなのである。 そう考えると、「見るなの花座敷」がひとつのシンボルとして、生き生きと感じられてくる。 私たちは、「見るなの花座敷」を見なければならない。 ほんとうの真実を見なければならない。 人間の本質は、魂であり、 教育は魂を輝かせ、魂の成長を求めるものでなくてはならないと 私は思います。 その意味では、芸術も教育も同じ目的を持つのではないでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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