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カテゴリ:子育て
「隣る人」とは、子どもの存在を丸ごと受け止める大人の存在を称して、児童養護施設「光の子どもの家」の理事長菅原哲男氏が作った造語です。 映画『隣る人』はその「光の子どもの家」の生活に8年にわたって密着し、その日常を淡々と丁寧に描いたドキュメンタリー作品。 ◇◇◇◇◇ 予備知識は、ほとんど入れないで見ました。 説明や字幕は一切なく、養護施設の日常と、子どもたちに直接携わる保育士のごくわずかなインタビューだけでまとめられた作品。 バラエティー番組のテロップの多用に慣れた私たちには、説明なしの映像と音声でつづられたこの作品、冒頭は登場人物の関係を理解するのに少し苦労するかもしれません。 それでも、養護施設で暮らす子どもたちの世界に引き込まれ、見終わった後には保育士の温もりが心の中心にじんわり残る作品です。 あらすじのない物語の中心になるのは保育士の「マリコさん」とマリコさんが担当のムッちゃんこと「ムツミ」と「マリナ」の2人の女の子。2人は母親がわりのマリコさんを取り合いながら、ケンカし、ときに傷つけあいながら姉妹のように共に暮らします。マリコさんの温もりに包まれながら。 児童養護施設で暮らす子は、理由はそれぞれ異なるものの、親と死別したり、親や家族が何らかの事情を抱えていて、肉親の元で育つことができない「家庭がない」子どもたち。 1人1人が胸のどこかに晴らすことのできない暗い闇を抱えています。 施設の保育士たちは、基本的な最小単位の「家庭」が壊れてしまっている子どもたちの基盤を、少しでも建て直そうと腐心します。 保育者が子どもたちに心を砕く姿が、淡々と描かれていきます。 施設の子どもたちそれぞれを、自分の本当の子どもか、もしくはそれ以上の存在であるかのように接する姿。 事情で子どもの担当を変わらなければならないとき、その子の行く末を案じ、もし行き先がなかったら「私が本当の親になってもいいかな」とつぶやく姿。 血のつながりはないけれど、そこにある絆は本当の親子以上のもの。 マリコさんがお休みの日は、寂しくて、悲しくて、ムツミとマリナはマリコさんへの手紙を書いて気持ちを紛らわそうとします。そして、マリコさんの布団に顔を埋め「いい匂い」とうっとりするのです。 ◇◇◇◇◇ してはならない言葉遣いに、親のように厳しく叱る姿。 泣いている子どもたちの心に寄り添い、抱き締めて慰める姿。 眠る前のひととき、一緒に布団に寝転がり本を読む声。 そして、朝目覚めて食卓に下りると聞こてくる、野菜を切るまな板の音、湯気を立てている鍋の音、そして「おはよう」の声。 同じように繰り返される変わらない日常。 いつもと同じ保育士の声、温もり、匂い、そして温かい料理。 子どもたちの日々が、毎日変わらないリズムの中で紡がれ、その五感が保育士との関わりの中で満たされていること、それがどんなに大切で、どんなに子どもたちに安心感を与えるのか――施設の日常を切り取った映像から、観ている私たちは痛いほど感じることができます。 子育ては綺麗事だけではありません。 施設の子どもたちも、私たちの子どもたちと同じように憎たらしい面もたくさん見せます。それでもキラキラ輝く純真さや思いやり、保育士への愛情、それを持っていてほんのひとかけらでもかいま見せてくれるから、憎いと感じたことはリセットされて帳消しになってしまう。 それは、保育士たちが子どもたちと真心で向き合い、真剣に関わっているからこそ生まれる無償の愛なのだと感じます。 物語の途中、母親と祖母がいるムツミの元へ、母親が一緒に暮らしたいと訪れ、関係を再構築しようとします。しかし、結局は歩み寄った先で母親に拒絶され、関係は修復不能になり、ムツミは施設に舞い戻ることとなります。 「どんな、ムッちゃんも好き」 そう言ってムツミを包んでくれるマリコさん。 ずっと一緒だよ。絶対に死なない。大好きだよ。 私たちはずっとずっと隣りにいる。 その保育士たちの気持ちが、子どもたちにもしっかり伝わります。 とても悲しい出来事があっても、乗り越えていけるのは、変わらず自分の隣りに居続けてくれる「隣る人」の存在があるから。 物語の最後のムツミの笑顔に、ムツミの「隣る人」であるマリコさんの愛を感じることができます。 ◇◇◇◇◇ 子どもたちは大人と違う時間軸を生きています。 大人である私たちは、日々に追われ寿命に急かされ、いかに効率的に無駄なく毎日を生きようと必死ですが、子どもたちの目の前にはときには残酷だと感じるほどの無限の時間があります。 大人がもったいないと感じるその5分は、子どもにとっては全く違う時間で、逆に私がいかに子どもの心の成長にとって「もったいない」ことをしているのか痛感しました。 子どもが育つのに、時間の効率は全く関係ないのです。 子どもが親を求めているときに、耳を傾け、手を休めて、目を見て、心で向き合うことが、どんなに大切なことなのか。作品で映し出される保育士の姿から、はたと気づかされるのです。 子は親を、育つ環境を、選べません。 自分が自分の子どもに取って本当に「隣る人」になれているのか、トゲが胸にチクチクと刺さる映画でした。 子育てにつまづいたとき、心の底でわだかまっているその痛みが防波堤となって感情を包んでくれる作品だと思います。 ◇◇◇◇◇ この映画を観る機会を得たのは、神崎町で行われた自主上映会。主催した実行委員の方と別の機会に知り合ったご縁からでした。 映画の前後に、長年保育士として子どもたちに携わって来た司会者からお話がありました。 その司会者の方が「母親が独りで子育てをしないで」と語りかけたことが印象的でした。 核家族が当たり前の現代。 子育ては母と子の家庭の密室の中に閉じ込められがちです。 頼りとなる父親は会社で長時間労働、親戚のいる地元は遠い。 数十年前は当たり前の風景だった隣近所で調味料を貸し借りしたり、「ちょっと銀行に行く間だけウチの子見てて」という親同士の付き合いもありません。大家族で親以外の大人の手があり、地域も子育てを支えていた――そういった人と人の付き合いが希薄になっています。 もともと多くの大人たちや他の子どもたちの中で育っていた子ども。 今は多くの母親が子育てを一手に引き受けようとして、疲弊しています。専業主婦家庭なら尚更でしょう。 虐待、育児放棄、無理心中、そんなニュースで見かける悲しい事件の数々。それを、母親のせいや両親だけのせいにするのは荷が重すぎます。 私も子どもを持つまでは、 「育てられないなら産まなければいいのに」 「子どもがかわいそう」 「母親失格」 「私はそんな親にはならない」 そう思っていました。 しかし、差しのべてくれる手が極端に少ない現代で、子育てしている私たち親なら一度は思ったことがあるのではないでしょうか? 「一歩間違えば自分がそうなったかも知れない」と。 この作品は、子育て世代だけではなく、子育て世代を包むその上の世代にも訴えかけるものがあると思います。 物語の中で、映し出されたムツミの母親。 ムツミの母親はムツミを手元に置きたいと願いましたが、叶いませんでした。 しかし、母親を責めるだけでは問題は解決しないのです。 誰もがムツミの母親になるかも知れない。 その母親を支えてくれるのは、夫であり、家族であり、親戚であり、友人であり、隣人であり、地域である。 家族という最小単位が、地域の温かい多くの手で包まれたとき、悲しい事件はもっと少なくなるはずだと感じることができます。 この神崎町の自主上映会は、子育てを終えた世代の方も多く足を運んでいました。地域の方々の心にも温かいものが残ったはず。 自主上映会を開催しようと奮闘した実行委員のお母さんたちと、それを支援してくれた自治体と地域の方々。 本当に素晴らしい町だと思います。 無料の託児環境も整えてくださり、子を持つ親である私も安心して子を託して映画を観ることができました。 願わくば、神崎町のような町が増え、地域が母親を、子どものいる家族を、孤立させないように祈るばかりです。 そして、働く父親が母親がもっと子育てに時間をかけられる世の中、そして多くの手が差し伸べられる社会になって欲しいと願います。 私が今回この貴重な映画を観ることができたのは幸運でした。 ぜひ多くの人に、一度ご覧になっていただきたい作品です。 子育て世代だけでなく、様々な年代の方に観て欲しいと思う映画でした。 映画『隣る人』予告編(Youtube) ◇◇◇◇◇ ●映画『隣る人』ホームページ http://www.tonaru-hito.com/ ★2013/2/24(日) 岐阜県瑞穂市で自主上映会が行われます★ 「隣る人」自主上映会 in 岐阜 ●作品の特質上DVD化の予定はありませんが、 誰でも自主上映会を行うことができます。 映画『隣る人』の自主上映会を企画してみませんか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年12月10日 08時17分24秒
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