2003年春
最終的に、俺は第21代伝人として迎えていただくわけだが、当時はワケワカンナイ、今にも死にそうな小僧なわけで。当時、俺以外に3人の練習している人がいて、先ず2人脱落。理由は練習がキツイから。ある程度憶えたから。師父は地元の名士で洛陽の本格的な武術家の間で名前を知らない人はいない。知らない、って言う人は大体武術をかじった程度か、外地から来た学校の先生の様な人たち。師父はもう学生は取らないし教室も作らない事にしていたのだけど、その時タマタマ、ねじ込めた学生が数名。それが上記3人+俺です。みなさん、モチロン、俺より体力があって金も有ったが続かない。俺達はミンナ、師父の家へ通いで練習。先生がワザワザ出向く事は無い。だって、武林でそれなりの地位の人が一練習生の為に出向くわけ無いし。もし出向いてくるなら謝礼がスゴイ事になる。芸事はタダじゃない。しかも、このレベルでは、先生は相手を見る。良く、始めて訪ねて、意気投合してイロイロ教えてもらったって話を聞くけど。そりゃ、雑談の域だって。ようするに、その人が人生を掛けて学んだ技術を、一度二度の出会いで教えるわけ無いでしょ。みんな、教えるべき内容をちゃんと考えて伝えているのです。大体、その人の覚悟やら人となりを見極めるのって時間が掛かるし、相手のレベルを確認し、段階を持って教えるのが芸事の世界。でも、どうも最近の人は触りを教えてもらって嬉々としてしまうようで。・・・・日本の人も中国の人もですが。話は戻って、俺は他の練習生の中で相変わらず一番ヘボイ、しょっぱい。低い姿勢になれば腰が痛い、動作を忘れる、憶えられない、すぐ半べそ。大体、中国語で全部の説明を聞かないといけない。集中力全開。続いた理由は、俺は中国武術をゼンゼン理解していなかった事。こう言う練習が厳しいと感じなかった事。元々、日本で“練習”を体験していたので逆に自分の体力と才能の無さにガックリ来ていたくらい。それから、師父が普段はアマリに普通のオジサンだったので、あまりビビッて無かった事。後でわかったのが、イロイロな武術学校や団体の代表に名前を連ね、尚且つ毎回断っていた事。普通の武術の人は必死に名声を得て、学生を沢山とって、お金持ちに成って・・・・になるけど、師父はひたすら自分の拳を磨く事に集中していた。ぜんぜん威張らないし。進歩のが遅いし中国語がよく分かっていない俺に、丁寧に繰り返し教えてくれた。毎朝5時に起きて9時まで練習。ご飯を食べて練習生を指導。休憩してまた練習、練習、練習・・・・・・。俺は師父の姿を見て、このオジサン、スゲェ、と思いながら、学生の俺も真似して沢山練習したのですね。・・・・よくよく考えると、同じ生活したら、普段の生活が壊れます。俺はタマタマ、地方の学校の先生でカリキュラム上まとまった休憩時間に外出出来て授業の準備やら仕事の時間以外を練習に出来たからだと思います。