ボクはこうして大きくなってきたんだと思う。
・・・ガスタンク・・・アヴィニョンくん、何描いてるの?ガスタンクぅぅぅ!・・・と、多分その時のボクは幼稚園児らしく大声で先生に答えてたことだろう。画用紙にクレヨンで大きく丸を書いて、架構部分の縦横フレームを描いて点検用階段も描いてたことを記憶している。昨日の運動会の絵を描きましょうって先生言ったでしょ!なんで運動会にガスタンクが関係あるの?ああ、そうだった、先生の言ったことちっとも聞いてなかったと周りを見渡す。お友達はみんな赤帽をかぶって走っている様やいかにも運動会らしい絵を描いている。残り時間で最初から書き直すことになり、自分だけ置いてけぼり食らうと泣きそうになった幼稚園児の頃の出来事を、今でもボクは鮮明に覚えているんだ。モデルとなったガスタンクはボクが毎朝乗車する駅から見える。決して悪気はないんだけど、あの頃から人の話をすんなり聞けない人間だったんだなぁと、時々電車の待ち時間を利用して遠い目で反省することがある。それにしても言うことを聞かずにウルトラマンとか怪獣の絵を描くのならともかくガスタンクって・・・。なんちゅうクソガキだったんだろう。w幼稚園児のボクが興味を持ってたまん丸な鋼鉄のタンクのことは、その後二十年近く経ってから日本建築学会では「容器構造物」という名称でカテゴライズしているんだと学ぶことになる。・・・スイス館・・・1970年に開催された大阪万博へは、家から車で二時間半あまりでいけたこともあり何度も連れてって貰った覚えがある。午後から仕事休んで時間作った親父は、当時小学1年だったボクをちょっくら万博へ行くべと学校を早退させてまであまり混雑が激しくない平日のほうがいいとよく連れて行ってくれた。だからアメリカ館の「月の石」も見ることが出来た。学校による拘束から自分だけ解放されることはものすごく悪いことのような気があの時はボクなりにでもしてたんだけど、一生に一度のことと万博を優先してくれた親父には今でも感謝している。だから遅くに出発していつも夜の閉場までいるもんだから、万博の夜景がすごく印象に残っているんだ。中でも「スイス館」の光の木と呼ばれるモニュメントの姿は、当時のボクの心に深く入り込んだと思う。あれから、特にクリスマスシーズンの夜の巷だったり、夜の田んぼ道を車で走っててポツンポツンと辺りの民家からもれる白熱灯色の光だったりに出会うたび、あの時夜の大阪万博で見たスイス館を思い出すんだ。・・・清水寺・・・小学校6年生の時、修学旅行でいく場所についての事前学習で、先生が清水寺のことを色々教えてくれた。もちろん歴史的な背景なんかもしっかり教えてくれてただろう。でもボクは坂之上田村麻呂だかなんだか知らねぇけどそんなことよりも、清水の舞台はケヤキの大木で組んであって一本も釘を使わずに建ててあるんだよ、と先生が言ったことを聞き漏らさなかったんだ。だから修学旅行当日に現地に行ったときは、舞台の骨組みをじっくり見たな。で、釘はどうか分からないが、錆びてるけど金具が付いてるやん先生~・・・と困らせたっけ。その後自分で割り箸とバルサ材で清水寺の模型を作ったんだ。もちろん親父は手伝ってくれた。(手伝うというより主導的だったと思うw)割り箸をところどころのこぎりで切り込みいれてから縦にノミのような道具ではつり取る。そのはつり取った部分同士をはめ込むと組手が出来上がる。ちょうど障子の桟の組み方の理屈だ。それを縦も横も奥行き方向にも組むと、もうガッシリと強靭なフレームとなる。縦横の格子組の力強さと美しさに感動したいい思い出。・・・ジョンソンワックス本社ビル・・・高校の時、このフランクロイドライト設計のビルの写真を見ながら、あまりにも美しい列柱空間に引き付けられているボクに先生はこう言った。これだけニョキニョキと柱が立ってるとさぞかし邪魔だろうなぁ~と思えるけど、よく見ると全然邪魔になってないように見えないか?不思議な空間だよな、っと。その邪魔とか邪魔ではないとかの実に現実的フレーズが入った先生の考察に、美しいとかカッコイイとか夢では建築は語れないし、現実的に成立させることが本物なんだと考えたことを覚えている。本当は柱なんかない無柱大空間のほうが柱が立ってるより邪魔物はなくて広々して快適だろう。だけど、無柱大空間の達成が条件的に不可能な場合は、素直に構造体としての鉛直加重を支える大切な柱を邪魔物扱いはできない。ボクはこの建築物を生で見たことは当然ないけど、この美しい空間を思い出すたびに、空間の縦軸に存在し視界を縦方向に分断し遮る「柱」について、装飾を施したり、柱間隔やバランスを工夫することにより邪魔物ではなくその空間にとってなくてはならないものに位置づけようと図ることを職業にできることはすばらしいことだろうなと思った反面、工夫の仕方を間違えると、何でこんなところに邪魔な柱が立ってるんだ!と散々言われるリスクも伴うなっと自覚していた自分を思い出す。4月からのボクの仕事だけど、2月の終わりごろに一旦は喜んでもう一年更新させてもらいますと言ったけど、散々悩んだ上でのことだったんだけど、この金曜日にやっぱり契約どおり3月いっぱいということで更新を辞退させてもらうことになりました。