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時代がかわって、今は平成の世。 貧困のどん底で苦悩した一葉の頃とは違うと言いたいが、それは嘘。 平成の社会(現代・今日)も明治の頃と似たような貧富の差が訪れようとしてるのでは? それもこれも、米国の亜流経済を志向した小泉・竹中の大馬鹿者の取り入れた 企業優先の、非正規雇用社会の、当然招来する悲劇に過ぎない。 デマも見抜けないほど、空腹に飢えた民衆にギロチン台に上らされた マリー・アントワネットが日本でもやがてみられる時代が来るかも知れない。 富の偏在は、民衆を狂暴化させるに十分であろう。 自爆テロに奔る者もこの世に絶望してるから、非道な殺人行為を行う。 米国のリッチな人が、慈善事業や寄付行為をするのは、その危機を回避したい からと、わたしは思う。 本当の小市民であった一葉が、 書いた物語は貧しさがあって成り立つ。 のこる面立ちを見ても、鼻筋ツンとして、気位の高さを認める。 その、士族であると言う、通用しない古小切手を心の心棒として 支え生きたのでありましょう。 物語りの”大つごもり”は貧しきものには夢の様な結末があるが 一葉にはなかったのでありましょう。 ”にごりえ”、”十三夜”など、特に”にごりえ”などは悲惨である。 まあ、一葉自身、胸を病む身、自殺を思わなかったとしたら不思議。 その想いを”にごりえ”で叶えたのでありましょう。
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