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カテゴリ:ヒーロー映画
スパイダーマンは、悩めるスーパーヒーローです。
物心ついた頃に、圧倒的な魅力でその世界に招き入れた仮面のヒーローは、「月光仮面」や「七色仮面」でした。「鉄腕アトム」のようなロボットは、21世紀の現在、HONDAのASIMOがいるように、現実の延長上にあるキャラクターといっていいでしょう。でも、正体を隠すはずが逆に目立ちすぎる仮面とコスチュームをつけてあちこち出没する人は、過去にも未来にもまずおりません。そういった虚構性の濃いお話が好みなのです。そのほかには巨大怪獣とか。 彼らには悩みがあったのでしょうか。月光仮面の正体は祝十郎、七色仮面は蘭光太郎(月光も七色も、劇中で正体を明かすことはありません)、二人とも名探偵です。素顔でも、頭脳明晰、運動神経抜群で、警察が事件解決に向けて相談や依頼にくるほどです。いつも毅然としていて、自分の人生や恋愛について悩む姿など見せることはありません。そんな優秀な男たちが、あえて素顔と本名を隠して、人々を救いに颯爽とやってくるのです。幼い魂は、感涙にむせびました。 二大ヒーローは、テーマソングで“月光仮面のおじさんは(川内康範作詞)”あるいは“七つの顔のおじさんの(川内康範作詞)”と歌われます。いかにも頼もしい。もうちょっと若返って、少年新聞記者の冨士進が変身する「まぼろし探偵」では、主題歌(作詞:照井範夫、補作:山本流行)に「元気な少年 まぼろし探偵」とか「明るい少年 まぼろし探偵」、また「親に心配かけまいと、あっという間の早変わり」とあります。日本の模範的な青少年像が感じられます。さらに「知恵と勇気の進君」と正体まで明かして褒め称え、悩みは微塵も見られません。 素顔のままで立派な彼らが、なぜ仮面をつける必要があったのか。月光仮面や七色仮面の敵が、どくろ仮面、サタンの爪、コブラ仮面、キングローズといった正体不明の怪人たちだったから、名探偵も正体を隠して挑んだと考えられます。明智小五郎が、怪人二十面相と闘うために仮面のヒーローに変身するといったシチュエーションです。 テレビがカラーとなり、空想特撮シリーズ「ウルトラマン」が登場します。ウルトラマンの正体であるハヤタは、これまた科学特捜隊の優秀な隊員です。70年代に突入すると「仮面ライダー」の本郷猛は、悪の組織ショッカーに改造されるという暗さをもちました。改造人間の苦悩と同時に、恩師緑川博士を殺害した犯人として娘の緑川ルリ子に誤解され、つけ狙われるというストーリーラインがあったのですが、いつのまにかうやむやに。やっぱり日本のスーパーヒーローに悩みは似合わないのか。本郷猛は、素顔のときも頼れる兄貴であり、ショッカーの戦闘員程度ならそのまま闘っても十分強い。仮面ライダーに変身するのは、ショッカーの怪人に対抗するためなのです。 日本のスーパーヒーローたちが悩まないのは、伝統文化“歌舞伎”の影響ではないかと思います。芝居小屋には、右から順に「書き出し」「二枚目」「三枚目」と、今でいうキャストタイトルが並びます。「書き出し」は善玉の主役、ヒーローであり、悪玉をやっつけます。二枚目が女と色恋沙汰を起こす役(色男)で三枚目は道化役と役柄が決まっていました。 歌舞伎においては、ヒーローはあくまでも強い人でなければなりません。女に惚れたり、悩んだりして、弱味を見せてはいけないのです。それが正しい日本男児の姿なのです。。そういった人物評価が遺伝子の中に脈々と生きていて、日本ではスーパーヒーローをあくまでも強い男として描いたのではないでしょうか。日本人的“感涙ヒーロー”と言えます。 さて、「スパイダーマン(2002)」では、ピーター・パーカーは様々な悩みをもっています。学校に遅刻しがちだったり、いじめにあったり。自分のせいで叔父さんが殺されてしまったという思いがあるし、親友とは彼の誤解から闘うハメになるし、彼女とはなかなかうまくいかないし、おまけに金はないし。 だからスパイダーマンは、どこにでもいる“等身大のヒーロー”といわれます。「アラン・ドロンのゾロ(1974)」や市川雷蔵の「新鞍馬天狗(1965)」では、素顔のドン・ディエゴや倉田典膳は、おカマっぽい臆病者だったり、昼行灯だったりしますが、それは敵を欺く偽りの姿。本当はとても強いのだが、わざとなよなよして見せている。いざヒーローとして活躍するときには、二面性の落差が痛快なわけで、“感涙ヒーロー”となります。けれど、ピーター・パーカーは、情けない男を装っているのではなく、実際に情けない。身近な存在ではあるかもしれませんが、虚構性は薄い。月光仮面、七色仮面は素顔も完璧、マスクをつけて完璧さがパワーアップ。マスクをつけなくても、スティーブン・セガールは、映画の中で絶対にピンチに陥らない。強さの固まりだ。ありえないのがとても嬉しい。 ピーター・パーカーのキャラクターの設定と同時に、CG特撮がとても不満でした。スパイダーマンのアクロバチックな動きなどをCGで表現してしまったのです。CGってのは要するにアニメでしょ。アニメ(=絵)だったら、どんな動きだってできてしまうのです。だからって多用すると、「どうせCGでしょ」って醒めた目で見てしまう。技術的に、絵と実写をあまり違和感なく合成できるからって、絵を喜んでいてどうする。スーパーヒーローを現実に感じるためには、鍛えられた人間の動きを見せて、凄い、さすがスーパーヒーローといわせなければ感涙しません。CGを使うなとはいいませんが、極力それがわからないように使ってほしかった。ここでの虚構性はだめ。もっとリアルに。 「1」には少々がっかりさせられましたが、「スパイダーマン2」が公開されれば、スーパーヒーロー研究家(勝手に名乗ってろ)としては見なければなりません。義務感みたいなところで見たわけですが、これはよかったです。ドック・オクとの闘いで、電車が暴走する。人々を救うために、極限の力を発揮して電車を止めようとするスパイダーマン。これがあの情けない男ピーター・パーカーなのか。ベン叔父さんは言った「大いなる力には、大いなる義務が宿る」。類い希な力で人々を守る、これがスーパーヒーローの神髄だ。ガメラも、身を挺してギャオスのレーザーメスから人々を救った。あのときと同じ感動が、今また蘇る。 さらに、力尽きたピーターを、今度は列車の乗客たちが、襲ってきたドック・オクから守る。「スパイダーマンの前に、オレが闘うぜ」「ボクも」「私も」。人々に支持され、期待される。これぞヒーローだ。スパイダーマンは、ついに“感涙ヒーロー”となりました。 だから「スパイダーマン3」では、オープニングのタイトルバックに「1」と「2」の名場面集が映されただけでもう涙、涙です。かつて昭和ガメラでも、ガメラ・マーチとともに敵怪獣との激闘シーンが上映されると、胸と目頭が熱くなったものです。 ガメラ・マーチに代表されるように、テーマ曲はとても重要です(世間は「代表」と見るかどうか知らないが)。巨大クレーンが暴走してビルが破壊され、グウェン・ステイシーが宙吊りになったときに、そして建築中の高層ビルに張り巡らされた“黒い蜘蛛の巣”にメリー・ジェーンが囚われの身となった(毎度毎度、ご苦労様です)ときも、絶体絶命のピンチに立ち向かうのは、もうスパイダーマンしかいない。人々の期待を背負って、テーマ曲とともに現れるスパイダーマンのかっこよさは、まさに感涙もの。 今回初登場のグウェン・ステイシー。スパイダーマンに登場する女性たちは、なぜ絶世の美女とはいいにくい方々なのだろう。メリー・ジェーンは、3回目の出演ともなると、ずいぶん見慣れてきました。このメインキャストの二人より、デイリー・ビューグル新聞社の編集室で、アシスタントとしてちらっと映る女性の方が美人だったぞ。演技力や存在感は未知数だが。今後、メリー・ジェーンとグウェン・ステイシーは、ピーター・パーカーを巡って恋のライバルとなるのか、あまり羨ましくないぞ。 初モノは、女性キャラだけではありません。悪玉も宇宙からの寄生生物“ヴェノム”と砂でできた体をもつ“サンドマン”が、揃ってスパイダーマンの前にたちふさがる。黒い物体“ヴェノム”が宇宙から飛来し活動を開始する場面は、「マックイーンの絶対の危機(ピンチ)(1958)」で隕石に乗ってやってきた“ブロブ”を思わせます。サム・ライミ監督も、B級低予算、面白さ満載のマニアックな作品を見ていたのね。 “ヴェノム”は、ピーター・パーカーを“黒いスパイダーマン”にしてしまう。様々な悩みをもち、情けない男であるピーター・パーカーは、ストレスも相当大きいだろうと思います。そのストレスが爆発したら、“黒いスパイダーマン”として不良になって、悪いことをするであろうと容易に推測できます。悩めるピーター・パーカーの人となりをうまく生かしたね。 “サンドマン”は、巨大化してスパイダーマンと闘うところがいい。スーパー戦隊の怪人みたいに、急に風船がふくらむかのようにでかくなるのではなく、砂を大量に集めることによって何十倍もの大きさになるのは、大変説得力があります。とにかく、スパイダーマンが、怪獣のような相手と闘う構図を見ることができて、またもや感涙。嬉しゅうございました。 さらにスパイダーマンは、親友ハリーが変身するニュー・ゴブリンとも闘います。「3」では、素顔のままのバトルシーンがいくつかありますが、実写とCGがスピーディーに合成されていて、違和感が少なくなりました。確かに、実写と思いきやピーターの素顔が明らかにCGだとわかったり、CGのスパイダーマンがマスクを脱ぐ場面で、実写のピーター・パーカーと入れ替わるところが不自然なつなぎだったりはありましたが、ずいぶん不満が解消されました。 クライマックスの対ヴェノム、サンドマン組の闘い。二大悪党を相手では荷が重い。ついにスパイダーマンも最後のときが来たかと思ったら・・・・。スパイダーマンに強力なパートナーが現れ、黄金タッグを結成します。このエピソードは、「昭和残侠伝シリーズ(1965~1972)」の高倉健、池部良を彷彿とさせ、感涙の極みです。 この作品を見たとき、映画館に中高年の女性二人組がいました。この手の映画では、珍しい客層ではないか。特撮、ヒーロー、アクションなどとともに、恋のすれちがい、あるいは悩めるヒーローの葛藤などがあって、おばさんの視点に立ってみても、まちがった選択ではなかったと思いますよ。あの方たちも、感涙にむせび泣いてくれたのなら、素晴らしい。映画の感想を聞いてみたかった。ちょっとだけですが。 毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。 ご協力、よろしくお願いします。 みんなブルース・リーになりたかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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