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テーマ:最近観た映画。(40135)
カテゴリ:怪談
若かったとき、金もなく彼女もいなかった。真夏の日曜日だというのに、一人で名画座のはしごをした。名画座とは、ビデオがない時代に旧作映画を2本立て、3本立てで上映した映画館だ。当然、ロードショー、封切りより入場料がずっと安い。
まず、朝から高田馬場パール座にて、「インフェルノ(1980)」「ザ・フォッグ(1979)」「キャリー(1976)」の3本立てを、そして、池袋文芸座地下で小林正樹監督の「怪談(1964)」を見た。そう、ひとり“ホラー+怪談大会”だったのだ。「怪談」は1本でも上映時間が3時間だから、見終わったときにはもう夜。朝から晩まで映画館にいて、恐い映画を見続けたわけ。いやあ、満足満足。 この日のラインアップは、どれもマニア必見の映画だったが、その中でも「怪談」は、子供の頃からずっと見たいと思っていた。念願が叶って、ようやく目にすることができた。予想通り、とても美しい映画だった。 高校生のときだったか、「エクソシスト(1973)が見たい」と言ったら、親戚のおばさんから「なんでわざわざお金を払ってまで“恐い”映画をみなければいけないの」と奇異な目で見られた。ホラーまたは怪談等の“恐い”映画は、B級あるいはキワモノ的な印象がある。 私にしてみれば、お金を払ってまで、絶叫マシンに乗ることの方がよほど信じられない。あんなの安全が保障されているのでもないのに(現に事故があるじゃないか)。 ホラーや怪談は、作る方も見る方も想像力が必要だ。絶叫マシンのように体感的ではない。直接的な危害もない(間接的にはわからないが)。 しかし、「怪談」は明らかに趣が異なる。小泉八雲の小説を原作とし、撮影期間9ヶ月、制作費(当時で)3億2千万円をかけている。耽美的、幻想的な作品と語られ、カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞している。 あの日に私が見た洋画ホラーの監督(ダリオ・アルジェント、ジョン・カーペンター、ブライアン・デ・パルマ)もそれぞれ力量があるが、娯楽性が強い。一方「怪談」は、“恐い”話を誰もが認める芸術作品として描いたのである。親戚のおばさんも、お金を払って見る価値がないとはいわないだろう。 これは何かと似ている。 いつか仕事の後、飲みに行ったとき、海外旅行の話になった。私が「アメリカへ行って、本場のプロレスが見たい」と口走ったら、上司は口に含んだビールをプーッと吐き出し、笑いながら「何が悲しくてわざわざ外国までプロレスを見に行くの?」と宣った。 プロレスも、世間一般のとらえ方はキワモノ的である。だから、一時期、プロレスに市民権を!などという言い方がされた。 アントニオ猪木は、プロレスラーとして、柔道金メダリストのウイリアム・ルスカやプロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリなどと異種格闘技戦を闘い、世間が認めるスポーツと交わることでプロレスを見る目を変えようとした。 小林正樹監督は、ホラーや怪談の地位を上げようとして、映画を撮ったわけではないだろう。しかし、「怪談」とプロレスの共通点は、似たようなコンテンツでも、入れ物や演出を変えることによって、低俗にもなるし、人々が価値を認めるものにもなるという話。 今回、中田秀夫監督が「怪談」という題名で映画を撮ったのは、小林正樹監督の「怪談」と無関係ではないだろう。 中田監督は、「女優霊(1996)(恐かった!)」や「リング(1998)」など、Jホラーといわれる作品を撮り続けている。しかし、ご本人は、ホラー系が好きとか強いこだわりがあるとかではないらしい。たまたま 「怪談」の公式Webサイトを見ると、“因縁話を愛の物語に昇華”、“怪談というジャンルを超えた”、“日本の美を極める”等の言葉が並んでいる。脱恐い話志向を感じるし、ただの恐い話じゃないとでも言いたげだ(言ってるよ)。 これはつまり、小林正樹版「怪談」への挑戦と解釈してもいいのではないか。 最初に「怪談」というタイトルを目にしたときは、64年版のリメイクかと思った。「怪談」といえば、小泉八雲だから。それに、怪談は、短編のオチでゾッとするところに味がある。64年版は、それで成功していると言える。 けれど、小泉八雲の「怪談」は、64年版で代表的な作品が映像化されてしまっているし、向こうが短編のアンソロジーだったら、こちらは長編でと考えたのかもしれない。長編怪談では、「四谷怪談」が代表だが、これも映像化され尽くしている。そのあたりからこれまであまりメジャーな映画化のない「真景累ヶ淵」を原作に選んだのかもしれない。これらは全くの推測。 いずれにしても“ホラー監督”中田秀夫から、名監督、さらには巨匠へのステップアップが狙いだったと思われる。コンテンツは恐い話でもね。 映画は、確かにきれいな画像だった。 特に、雨から雪へと天候が変わる様子、そして江戸の町並みから隅田川の花火への移動などCGの使い方が鮮やかだった。行灯の明るさも、他の時代劇ではやたらに明るいが、ここでは実際の雰囲気を出していたと思う。音響もよかった。この映画は、海外市場を狙っているようだが、浮世絵のような画像は、外国で受けるかもしれない。 しかし、怪談としてはどうか。 恐い場面はある。それは見て確かめてほしい。トータルな話としてみたとき、私は頭の中で、ストーリーをつなぎ合わせる作業を行った。私がアホだからか(ソウ!) この話は、鍼医で高利貸しの宗悦が、借りた金を返済できない深見新左衛門に殺されるところから始まる。二十五年後、何も知らない宗悦の娘豊志賀と新左衛門の息子新吉が出会い、恋に陥る。 宗悦が豊志賀の妹お園の夢に出てきて言う。「よりによって新吉とだなんて、志賀はとんだ罰あたりだ」 つまり、宗悦の呪いが悲劇、怪談の始まりなのだ。 ここで言いたい。豊志賀も新吉も、何の罪もない。なんで祟られなくてはいけないのか。それが怪談だと言ってしまえばそれまでだが。親としては、例え恨みがあっても、子の幸せを願うものではないのか。 あわれ、宗悦の祟りで、豊志賀と新吉の仲は険悪になり、顔に傷を負った豊志賀は死んでしまう。 ここからは、豊志賀が新吉に祟る。「此の後に女房をもてば 必ずやとり殺すから そう思え」。新吉は、何をやっても、新しい女と巡り会っても、うまくことが運ばない。 そして、ラスト、死んだ新吉と豊志賀は結ばれる。現世では添い遂げられなかったが、あの世では、宗悦の呪いも解け、ようやく一緒になることができたのだ。キャッチコピーの“ずっと、ずっと、ずっと、あなただけ”ってなわけで、永遠の愛という話になる。 じゃあ、新吉に思いを寄せ、祝言まで挙げて殺されたほかの女たちの立場はどうなるんじゃ!彼女たちだって、一途な気持ちだったのだろう。 これは、豊志賀という女性を、根っからの嫉妬深い性格にしたくなかったのだろう。けれど、豊志賀の霊を出したい。そうすると、宗悦という要因をもってきて、豊志賀は、はからずも諍いから死に至り、化けて出る。でもホントはいい人なのよだから、呪いが解けたら愛に生きるのよ(死んでるけど)。 この設定が煩わしいんじゃ。長編怪談の弱点だろう。 宗悦の恨みはわかるよ。でも、我が子を犠牲にして祟ってしまったから、話がややこしくなるのだ。豊志賀をいじめないで、新吉だけに的を絞ればよかったのじゃないか。 その点、「リング」の貞子や「呪怨(2002)」の伽椰子の方がはっきりしている。 怪談をきれいにつくるのは、難しいやね。 異種格闘技戦のアントニオ猪木対モハメッド・アリが世紀の凡戦といわれたようなものかな。 毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。 ご協力、よろしくお願いします。 みんなブルース・リーになりたかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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