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テーマ:DVD映画鑑賞(14216)
カテゴリ:ヒーロー映画
ティム・バートン監督の『アリス・イン・ワンダーランド(2010)』を見た。一言で言うと、分かりやすい話だった。これは、ティム・バートンに対する評価としてはどうなんだろう。 で、同監督の『バットマン』を20年ぶりに見直してみた。 公開時、映画を見終わってぼくが友達に呟いた言葉は「スーパーヒーローもので芸術をやらないでほしい」だった。 画面は暗いし、話は暗いし、やっぱスーパーヒーローものは、勧善懲悪、スカッとカタルシスがないといかんでしょう、というのが当時のぼくの意見なのだった。 多分、ぼくの中にあったスーパーヒーローとは、かつてのジェームズ・ボンドのように完全無欠、スリリングな展開の中で悪を倒して人々のピンチを救うというひたすらかっこいい存在だった。 あるいは、日常生活ではおバカを装い、いざとなったら仮面とコスチュームを纏って、颯爽と登場する、という二面性があっても、それはそれで能ある鷹は爪を隠すみたいで、その落差に心惹かれるわけだ。代表的な映画は『アラン・ドロンのゾロ(1975)』 スーパーヒーローの内面や人間的な深みなどは関係ない。荒唐無稽であっても、極端な話強ければいいと思っていた。スティーブン・セガールみたいに。 ところが、ティム・バートンのバットマンは、そういうスーパーヒーロー像と異なっていた。ティム・バートンの描くバットマンは、異形なのだ。やめてよ、と思った。やっぱりぼくのヒーロー像の原点は、鞍馬天狗なのかもしれない。 でも、今回『バットマン』を見て、前回見たときの印象とはちがって面白かった。 どうしてそうなったのだろう。 ひとつは、この『バットマン』以前と以後ではスーパーヒーローがかっこいいばかりでなく、思い悩むようになった。『スパイダーマン(2002)』しかり。だから、そういうスーパーヒーローの描き方に慣れてきたのだろう。 そして、僕自身が時間の経過と様々な人生経験により、かつての偏狭なスーパーヒーロー像から、許容範囲が広がったということもあるのではないか。 そのようなことから、今回は、ティム・バートンが描くところの『バットマン』も面白く感じられたのだ、きっと。 もちろん、以前は暗さに幻惑されていたが、じつは『バットマン』もきっちりスーパーヒーローらしかったと再発見したこともある。 『アリス・イン・ワンダーランド』のアリスは、現実の世界と幻想の世界を行き来した。しかし、バットマンは、己に二面性を抱えるものの、住んでいるのは、あるいは活躍するのは、幻想世界のゴッサム・シティだ。 その点、ティム・バートンは、幻想世界の人間の話ばかりでなく、現実へ帰還する者も描くようになったわけだ。 子供の頃、テレビシリーズの『バットマン(1966~68)』を見る直前のことだ。新聞の新番組紹介で『バットマン』のことを知った。しかし、コウモリのことを英語ではバットということを知らなかった。子供だから野球のバットしか知識がなく、スーパーヒーローの武器がバットだからバットマンなのかな?と思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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