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テーマ:DVD映画鑑賞(14214)
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人は、どれだけ「自分はこうしたい!」という意志をもって生きているだろうか。 他者の目にどう映っているかということばかりが気にしていないか。 競争社会の中で、勝った負けた、得した損したといった他者との比較にとらわれていないか。 テレビを始めとしたマスコミが発信する無責任な情報や流行を行動の拠り所としてしまって、それに振り回されていないか。 『ディフェンドー』の主人公アーサーは、どこまでも純粋に自分自身の感性に従って生きている。 アーサーは、不正を許さない。愛するママを亡き者にした暗黒街の総統を倒すため、そして平和で安全な社会を夢見て、正義の自称スーパーヒーロー「ディフェンドー」として活動する。 「ディフェンドー」は、特殊な能力や装備は全然もっていない。だから、正義の闘いを挑んでも、悪党どもにボコボコにされてしまう。救急車で運ばれ入院するはめになる。それでもアーサーの悪を憎む気持ちが衰えることはない。 アーサーの行動、生き方は、人に受けようとしたものではない。人から反対され諭されようとも、我が身が危険に陥ろうとも、自称スーパーヒーローを辞めようとはしない。それは、自分を信頼しているからだ。ピュアなまでに自分自身であり続け、自分自身の中に「こうしたい」という揺るぎない思いがあるのだ。 同じように『キック・アス(2010)』のデイブも、弱っちいにもかかわらず、世間の悪を一掃するためにスーパーヒーローに変身する。「ディフェンドー」と「キック・アス」は似ている。ふたりとも、我が身を省みず、自分の熱い心意気に従ってスーパーヒーローを志す姿を見せてくれた。 その「キック・アス」は、強い仲間を得て、そして装備によって、ギリギリのピンチでスーパーヒーロー的な活躍を見せることができた。そこにカタルシスがあり、感涙にむせんだ。 一方の「ディフェンドー」は、最後の最後まで等身大のスーパーヒーローだった。そこに深い味わいがあった。 「ディフェンドー」は、どこまでも魂のスーパーヒーローだった。 人、そして物に振り回されて時間をすごしていると、満足感は得られない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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