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カテゴリ:ヒーロー映画
前作『キック・アス(2010)』は、キック・アス=デイヴ・リゼウスキのスーパーヒーロー魂が当方のエモーションを強く刺激した。 元来、デイヴ・リゼウスキはへなちょこである。 しかし、街にはびこる悪を見逃すことができず、ネットで購入したスーツを着て「キック・アス」を名乗る。 この「キック・アス」は、リアルである。街の暴力に立ち向かうが、逆にボコボコにされる。気持ちだけでへなちょこがスーパーヒーローになれるわけがない。それが現実。 対する「ビッグ・ダディ」と「ヒット・ガール」はファンタジーである。とにかく強い。並みいる悪党をあっという間に血祭りに上げる。しかも、「ヒット・ガール」は年端も行かぬ少女である。にもかかわらず、戦闘マシンとして徹底的に鍛え上げられている。まさにありえない存在。 リアルの「キック・アス」とファンタジーである「ビッグ・ダディ」「ヒット・ガール」が遭遇する。 「キック・アス」には、「ビッグ・ダディ」「ヒット・ガール」のような悪党と闘うための体力も格闘技術も何もない。あるのは「スーパーヒーロー魂」だけだ。何はなくとも「スーパーヒーロー魂」。無敵の戦闘能力はなくとも、正義の気持ちが悪に向かっていく。満身創痍になりながらも、「スーパーヒーロー魂」が「キック・アス」を突き動かし、やがてファンタジーの存在へと足を踏み入れる。 さらに、「ビッグ・ダディ」と「ヒット・ガール」は、あくまでも影の存在である。誰に頼ることも頼まれることもなく、人知れず悪に挑むばかり。なんら世間に自己をアピールするところがない。 『キック・アス』のそんなところがよかった。 新作『キック・アス2』はどうだったか。 前作との大きな違いは、スーパーヒーロー軍団“ジャスティス・フォーエバー”である。 なりきりヒーローが増殖し、街の自警団化したわけだ。 以前、スーパー戦隊が登場したころ、こんなことを思ったのは当方ばかりではなかった。 「仮面ライダーは1人(ないしは2人)でショッカーと闘っているのに、スーパー戦隊は5人で1体の怪人と闘うって、なんか卑怯じゃないか」 じゃあ、『3大怪獣地球最大の決戦』はどうだ? 宇宙から飛来したキング・ギドラ1体に、地球怪獣ゴジラ、モスラ、ラドンの3体が向かっていく。 これはいい。 なぜならば、キング・ギドラは地球怪獣の倍の大きさなんだ。 そして、宇宙怪獣であるからこれは地球怪獣を基準にした場合、超怪獣といえる。 さらに、最初はモスラ1体が向かっていってまるで歯が立たず、ゴジラとラドンが加勢する、 そういったことから、まるで卑怯には見えない。 スーパー戦隊の出現まで、スーパーヒーローといえばたいてい1人だった。 特殊な能力をもつ者は特別な存在で、そういう者がそうそう大勢いるわけはない。 スーパーヒーローは、孤独な闘いを繰り広げてきたわけだ。 そういうスーパーヒーローの1人きりのバトルは、共感を呼ぶ。 実際のところ、スーパーヒーローと言えども、問題解決の手法は腕力である。 平和的な解決方法ではない。 しかし、たった1人で強大な敵と戦うから、腕力、武力が容認される。 例えば、座頭市。 座頭市は、目が見えないというハンディに、人々はまずシンパシーを感じる。 さらに、敵は大集団で襲ってくるわけだから、多勢に無勢、孤立無援、そいつらをつぎつぎよ叩き切ってぶっ殺しても、観客は声援を送りこそすれ、座頭市のことを残虐非道とは思わないわけだ。 『キック・アス』では、キック・アス、ビッグ・ダディ、ヒット・ガールの闘いは、共感を得る設定だった。 しかし、『キック・アス2』では、コスプレスーパーヒーローもどきの単なる自警団がわんさか束になって殴り込みにいき、集団大乱闘になる。 そこんところで、よってたかって、結局は暴力しか問題解決の方法はないのか、というさめた思いを感じた。 スーパーヒーローの存在価値は、スーパーヒーロー魂である、 スーパーヒーロー魂は、孤独でも、困難であっても、闘い抜くスピリットだ。 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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