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★☆ 魏志倭人伝の「一支国」、「元寇襲来の地」だった『壱岐(いき)』 ★☆ Iki Island is administered as the city of Iki in Nagasaki Prefecture, Japan.. 台風接近中でも、運よく好天に恵まれた旅行日和を遊ぶ 台風16号が沖縄県の石垣島周辺から北東方の九州本土へ接近中の9月17日(土)~18日(日)にかけて、REALISTは、長崎県壱岐市の『壱岐島(いきのしま)』にて周遊旅行を敢行しました。『壱岐島』は、長崎県の『対馬』と福岡県の『博多』との中間点に位置する島です。 前日までの天気予報では、両日とも山口県、福岡県とも雨天で、大雨警報も出ることが予想されるほどで、「暴風や豪雨で壱岐行きは、無理ではないだろうか?」と諦(あきら)めに近い不安もありましたが、旅行会社(http://iki.halimao.com/) や博多埠頭のフェリー会社(九州郵船)からは、壱岐方面のお天気は、雨雲の予想位置からも、なんとか持ちそうだとの情報があり、自分自身も「晴れ男」とよく言われるほど天候に恵まれる強運もあり、「なんとかなるだろう」と運を天に任せて旅立ちました。
「壱岐」に行くには・・ 山口県の新山口駅発の新幹線こだま857号で午前7時11分に乗車、午前8時には博多駅に到着、そこからタクシーに乗車し、目指す「壱岐島」へ向かうフェリー乗り場は、「博多埠頭第2ターミナル」ビルの2階にあります。博多駅からは近いので「大博通り」を進めば、混んでいる時でもタクシーで15分程度しかかかりません。 この「博多第2ターミナル(http://iki.halimao.com/ferry/ryoukin.htm)」からは、「壱岐」(所要時間2時間半)をはじめ、「対馬」(同4時間半)、「五島列島」(同8時間)方面にもフェリーやジェットフォイル(高速船)で手軽に行けます。しかも、料金も思ったほど高額ではなくリーズナブル(壱岐方面なら、片道の大人料金で、フェリー2等船室:で1920円、ジェットフォイル;3920円)です。 『 壱岐 』とは・・・? 『壱岐島』は、東西15km、南北17km、周囲140kmあります。海岸線の長さは190kmにもなります。面積は、約138k㎡で、島の中では、全国で20位で、琵琶湖の1/5の大きさの面積です。人口は、27000人余りですが、自然に恵まれた一方、島というイメージを上回るほどにライフラインもしっかり整備されており、道路整備状況も良好です。壱岐は、1つの島ではなく、複数の島で成り立っています。有人島としては壱岐島の南西部の沖合いに原島・長島・大島が、北側の沖合いに若宮島があり、島周辺には19ヶ所の無人島もありますが、これらをまとめて「壱岐」と呼ばれています。行政的には、現在は長崎県壱岐市の1市体制で、市域全域が「壱岐対馬国定公園」に指定されています。 山らしい山はありません。そのなかでも、「岳の辻」が212.9mで一番高く、次いで「久美の尾」の175m、「男岳山」156mと続きます。 距離感覚では、一番近いのは唐津港からで42km、博多港からだと76km、対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmあります。壱岐は長崎県ですが佐賀県が一番近い距離の場所にあります。朝鮮半島-対馬-壱岐-博多の距離は、それぞれ50km、68km、76kmあります。 歴史的に見ると、はるか昔の2200年以上前の縄文時代、弥生時代の集落跡、土器などの遺跡多数が発掘され、古墳時代の銅剣や鉄器なども多数発見され、古墳多数が存在し、神話の時代の「古事記」に「伊伎島」と記され、国土誕生の際日本で最初に出来た「大八島の一つ」とされています。また、また、「魏志倭人伝」に、「邪馬台国」の支配下にあったが王のいた「一支国(いきこく)」が存在し、対馬の1000世帯をはるかに超える3000世帯、推計人口15000人以上もの住民がいた、当時の日本では特に人口の多い地域であったと記され、一支国律令制下においては、「壱岐国(いきのくに)」に属したとされています。対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点となっていましたが、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』にも、壱岐島や対馬島についての記事がある半面、「大陸方面からの悲惨な侵略を受けた過去の歴史」もあり、朝鮮や中国に近いというハンデから容易に侵略を最初に受ける場所でもあります。奈良時代~平安時代にかけて、朝鮮半島の新羅の賊や中国大陸の女真族系の刀伊賊(といぞく)の侵略を受けて、島民が虐殺・略奪され全滅の状態になりました。また、鎌倉時代には、2度にわたる「元寇」という日本史に残る大侵略を受け、壊滅的な打撃を受けました。逆に、豊臣秀吉が朝鮮出兵をする際は、前線基地にもなり、太平洋戦争時代には、壱岐と対馬との間を通るアメリカなどの連合軍側の軍艦を沈めるため、戦艦長門級の「東洋一の41センチ連装砲台のある海岸要塞」が建設されました。 島には、唯一の温泉「湯ノ本温泉」があり、温泉質は濃厚で、茶褐色に近い色をしている源泉かけ流しのまろやかな湯を堪能できます。 日帰り湯では、「国民宿舎壱岐島荘(https://onsen.nifty.com/iki-onsen/onsen004165/)」(入浴料:315円、営業時間:10:00~16:00、住所:長崎県壱岐市勝本町立石西触101、電話:0920-43-0124)があります。 壱岐に向けて出発!(17日) 「博多埠頭第2ターミナル」から壱岐(郷ノ浦)行きのフェリーに乗船、 午前10時に出航!、壱岐到着は午後12時15分頃になります。 17日の朝ですが、雨もなく、風も穏やかで、台風接近が信じられない 晴れ男にふさわしい青空のお天気でした。波もなぎの状態です。 壱岐(郷ノ浦)到着! 予定通り、「郷ノ浦港」に到着!お天気は御覧のとおり、快晴です。スマホで雨雲の状態を調べると、この時点で、「壱岐島」周辺は雨雲なし。ところが!付近の韓国南岸や南九州、山口県方面では大雨状態でした。大型観光バスが7台、客を待ってましたが、そのうちの1台に乗り込みました。 安国寺 最初に向かったのが、一休和尚で有名な京都の「安国寺」と同じ系列のお寺です。 この寺は、1338年(暦応元年)足利尊氏が、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うため、従来あった海印寺を安国寺としたものです。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも「高麗版大般若経」は国の重要文化財に指定されています。 大般若経591帖が6箱に収められ、安国寺境内にある宝物殿経蔵に保存されていましたが、先の有名な韓国人による対馬の仏像盗難事件同様、壱岐の安国寺でも、1994年7月23日に591帖のうち493帖が、韓国人により宝物殿から盗まれていることが発覚しました。1995年にしみや汚れ、巻末の署名などが酷似したもの3帖が韓国で「発見」され、やがて韓国の国宝284号にまで指定されましたが、日本の外務省が1998年に韓国政府に対して調査を依頼しましたが、個人所有であるとして返還が認められませんでした。所有者は、コリアナ化粧品会長で韓国博物館会会長の兪相玉(ユ・サンオク)なのだそうでですが、韓国は、盗品と分かりながらも被害国への謝罪や返還措置を講ずることもなく、盗んだ物も自国の物という感覚で反日感情に偏った不公正な司法判断が可能な北朝鮮や共産中国のエゴイズムとも共通する不公正で異常な偏狭国家としか思えません。 拝殿(写真左)は室町時代に建造されたものです。とても凝った造形美があります。右は、戦国武将の松浦久信(まつうらひさのぶ)とキリシタンであったその妻メンシアのお墓ではなく拝塔だということです。キリスト教を示す様式があるそうです。 境内の中にある樹齢1000年のクスノキです。この木は、過去の歴史をどれだけ見てきたことでしょうか?直径6m、樹高30mもあります。長崎県の天然記念物に指定されています。さすがに、風格があります。 ご神木ですね。このバスガイドさんによれば、壱岐には広葉樹はほとんどなく、紅葉の秋は、この島では見ることができないそうです。 麦焼酎蒸留工場見学 「壱岐」は、「麦焼酎の発祥の地」だそうで、蔵酒造に行き、酒蔵や焼酎製造の蒸留塔を見学、製造の工程を拝見しました。この島限定販売の「壱岐の島」や「二千年の夢」の銘柄をお土産に購入しました。試飲したら、とても美味しかったです。 八幡 左京鼻(岬) 「左京鼻」と言う岬を示す観光地の紹介で、よく出される写真が、この奇妙な形の岩なのですが、しかし、これ自体は岬ではありません。 「左京鼻」に関する説明のある看板。 これが、正しい「左京鼻」の写真です。 このあたり一帯を歩きました。 これも違う方向から見た「左京鼻」です。岬の先端には、赤い鳥居があります。勿論、先端まで歩きました。 少弐公園(弘安の役瀬戸浦古戦場・壱岐神社) 2度目の元寇侵略!「弘安の役(西暦1281年)瀬戸浦古戦場」に関する説明文。 弘安の役の際、島の守備隊の鎌倉武士団の侍大将「少弐資時(しょうにすけとき・19歳)の墓と伝えられる遺構。 「元寇」の2度目の侵略となった「弘安の役古戦場」と刻まれていました。 西暦1281年、900隻余りの元のクビライ帝の大型軍船がこの海岸線一帯を埋め尽くしていたことでしょう。この日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の大艦隊であったと言われています。蒙古・漢人の混成部隊3万人、元の属国であった朝鮮の1万人余りの高麗軍部隊が、島に上陸、占領しました。島守備隊の鎌倉武士軍団はわずか500騎足らずの騎兵でしたが、奮戦するも多勢に無勢、やがて全滅し、守備隊の総大将(19歳)の「少弐資時(しょうにすけとき)」も海戦で最期を迎えます。 この対馬・壱岐の戦いでは、島民のほとんどが殺され、あるいは女たちは手に穴をあけて縄を通され、見せしめのために船に結わえ付けられていたという伝承もあり、蒙古人・漢人・高麗人の連合軍の去った後の島の惨状は、修羅場と化していたとのことです。 写真左は、西暦1281年の元寇の蒙古襲来の「弘安の役」の際、壱岐の防衛任務にあたる武士団や馬の搬送に当たった日本側の大型船の錨(いかり)の石(長さ2.5m)、左は、壱岐守備隊として大群を相手に奮戦した武将「少弐資時(しょうにすけとき)」を弔(とむら)う「壱岐神社」です。 神社発祥の地・月讀(つきよみ)神社 神社としては、小規模ですが、日本最古の神社!、「月讀(つきよみ)神社」入口です。神社の発祥は、ここから日本全国に広まったそうです。この島内の神社の総数は、神社庁登録だけで150以上もあるどうですが、それだけ、この島が神代の国の時代から神的なものを持っていたという証(あかし)でしょう。 急な階段を歩き、本殿でお詣りを済ませ、バスガイドさんお勧めのお守りを買いました。 奇岩「猿岩」 右手に見える岩が「猿岩」だそうで、そう言われて見れば、猿の左側の横顔に見えます。この岩は、ここでは結構有名な観光名所の様です。 黒崎砲台跡 (巨大要塞) 戦時中は、東洋一であった、迷彩を施された「41センチ連装砲台のある海岸要塞」の概念図。 戦艦「長門」級の拡大改良版の戦艦「加賀」の姉妹艦である戦艦「土佐」(基準排水量39900トン)は、1922年のワシントン海軍軍縮条約成立により、廃艦の運命となり、その際、積載していた主砲である41センチ砲2連装の砲台部分を活用し、壱岐・対馬海峡を通過する敵艦攻撃用に壱岐の黒崎に沿岸要塞砲台として5年余りの歳月をかけ建設されたのが、巨大な黒崎の41センチ2連装砲台要塞でした。 口径は、戦艦大和の46センチ砲に次ぐ41センチの巨砲であり、土台部分を含めた金属部分の砲台総重量は1000トンもあり、最大射程距離も35kmもありました。 終戦後、アメリカ軍が上陸、重量1000トンを超える砲台の撤去作業に爆薬による爆破作業でも破壊できず、遂に新日鉄の前身の八幡製鉄に撤去を依頼するも作業は難行、結局、完全撤去に5年間も要したそうです。 小学生の頃、映画好きな父親に連れられて観た映画に、グレゴリー・ペック主演、アンソニー・クインなども出演していたアメリカの戦争映画に『ナバロンの要塞』という映画がありました。これは、第2次大戦中のギリシャ沿岸にドイツ軍が建設した海岸要塞の巨砲が、通過するイギリス軍の駆逐艦などに脅威となったことから始まる物語ですが、詳しくは、イギリスの作家アリステア・マクリーンが1957年に発表した戦争小説で、1961年に映画化され、小説・映画ともども評判となったものです。この映画は、1962年の第34回アカデミー賞の特殊効果賞、および第19回ゴールデングローブ賞の作品賞(ドラマ部門)を受賞したものですが、このドイツ軍の要塞に据え付けられていた2門の大砲ですら、せいぜいクルップ製の28センチ要塞砲程度のもので、それに比べれば、比較にならないほど、黒崎砲台の方がはるかに巨砲だと感じました。 左は黒崎砲台跡展望通路入口、右は、砲台を取り除いた直径30m位ある巨大なコンクリートの台座部分です。地下部分からも入れるそうですが・・・・それにしても、当時の状況を想像すると巨大な砲台であったことが想像できます。終戦まで、訓練射撃のみで、実際の戦闘射撃は一度もなかったとのことでした。 夕食(アワビステーキ、壱岐牛、新鮮な刺身、ウニ飯) 普通は食べれないアワビステーキ(写真)、やわらかい壱岐牛ステーキ、海鮮茶わん蒸し、赤ウニたっぷり飯、新鮮なカツオ、イカ、ヒラマサなどの刺身、磯の香りのする吸い物・・・とても美味しかったです。 食後、休憩して温泉に行きました。 静かな翌朝の風景(郷ノ浦)(18日) 壱岐島唯一の温泉「湯の本温泉」で入浴し、その後、郷ノ浦のホテルで宿泊しました。これは、翌18日の早朝、ホテル7階の窓からの静かな郷ノ浦港の静寂な風景です。昨夜来、南九州や山口県などは、大雨が続き警報が発令されているとかでしたが、ここはいたって平穏、雨も風もなく、海もなぎ状態でした。 不思議なことに、北の韓国、対岸の福岡市でも大雨でしたが、壱岐島の周囲だけは、ぽっかりと穴が空いたように雨雲が存在しません。やっぱり、晴れ男だわ! 牧崎 ゴリラの岩・鬼の足跡 写真左は、「ゴリラの岩」と呼ばれるもので、なるほど、ゴリラの右側の横顔の様です。また、付近には、「鬼の足跡」と呼ばれる海岸沿いの巨大な穴があります。 これが、その「鬼の足跡」だそうです。この島には、昔から、鬼が支配していた時代があったという「鬼ヶ島伝説」があるそうなのです。 「鬼の足跡」付近の「牧崎」付近の海岸線を歩いてみました。険しい海岸線が目を引きます。 「ゴリラの岩」に近づいてみました。見る方向で色々と変化して見えます。 美しいピンクの花一株が目に入り、思わず撮影しました。「何という花だろう?」・・・「私も花の名はわかりませんが、綺麗ですね。」と、バスガイドさんもスマホで撮影しました。 壱岐の代表的神社 住吉神社 壱岐島住民が初詣などで訪れる神社といえば、この「住吉神社」が定番なんだそうです。 前を進むバスガイドさん、この島の出身だということで、色々と詳しく教えていただきました。2日間にわたり、大変お世話になりました。 なんと!左の写真は、この神社で神前結婚式をされていた様子です。まだ20代前半の若いカップルでした。右は、神木の二股の巨大夫婦杉です。バスガイドさんのお知り合いだったとか!この周りをグルリと歩けば、長寿や結婚相手を願えば、かなうとのこと!バスガイドさんも独身だそうで、お婿さん募集中だそうです! 掛木(かけぎ)古墳(探索) 「掛木(かくぎ)古墳」という古墳時代の豪族の古墳に来ました。実際に、古墳には入ったことはないので興味津々でした。巨大な岩を組んで墓室を作り、その上に土盛をした構造です。 左は、古墳の入り口で、中は狭いので順番に入ります。バスガイドさんの説明で色々勉強になりました。右は、室内の天井部分ですが、巨大な岩で蓋をしたようになっていました。 この写真は、当時の古墳建設風景をディオラマ化したものです。 古民家園(江戸時代の標準的農家の再現) 壱岐島の江戸時代当時の農家の標準的な屋敷がまえを再現した「古民家園」の「壱岐風土記の丘」と言う施設を見学しました。 当時の農家は、別棟に「隠居(いんきょ)」があり、息子が結婚した時点で、老夫婦は、母屋から出て「隠居」で生活するというパターンが定着していたようです。 「隠居」の建物と外部・内部とも、付近の状況も細かく再現されていました。 母屋(オモヤ)は、元々は、老夫婦が住んでいた住居ですが、新しい息子夫婦の住居となるということです。 江戸時代でも、母屋は2階建てで部屋数も多くとても広いんです。 ホンマヤは、納屋と物置を兼ねたもので、農機具小屋です。 コメの脱穀機を置いていて、足踏みの脱穀作業をしていたようです。 セッチンは、今のトイレのこと。 写真左は、セッチンの様子、右写真は、牛小屋とつながれていた牛たちの様子です。江戸時代でも、以上の建物がセットになっていたのが標準的だったとは知らなかった。 鬼の窟(いわや)(古墳) 「鬼の窟(いわや)」も古墳時代の有力者の古墳の一つですが、少し大きな墓室でした。大昔の人が巨岩をどうやって組んだろうと思いました。 原の辻ガイダンス(原の辻一支国王都復元公園) 近年の発掘調査の結果、「一支国」の王都であったことが判明、「原の辻一支国王都復元公園」として復元されています。そこを訪れた際、風雨が一時激しくなり、写真撮影はできませんでしたが、その状況や説明する展示物などがある写真上の「原の辻ガイダンス」という施設で見学しました。 これが、復元された「一支国」王都の再現された遺跡公園です。門や柵、物見櫓(見張り台)や集会所、迎賓の建物、王の館、倉、民家など様々な当時の建物や港の跡なども再現されています。佐賀県の「吉野ヶ里遺跡公園」とも似ています。土器なども日本の弥生時代に共通する部分が多いと思います。 遺跡の出土品から再現された「一支国を守る兵士」です。右手に銅剣、左手に持つ大型の木製の盾(たて)は、人の身長よりも大きいです。ローマ帝国の歩兵の盾も大型でしたが、それ以上に大きいようです。木製の胸当ての様な剣道の防具にも似た「短甲」という鎧(よろい)も身に着けています。 一支国博物館(黒川紀章設計) 「一支国博物館」の玄関ホール内部の様子です。この建物は、外観を撮影していませんが、有名な「黒川紀章」の設計による建物です。この2階には、多くの様々な歴史的遺物が展示されていました。展示物は写真撮影はできません。 玄関ホール付近に展示されていた「元寇・弘安の役」の様子を描かれた絵です。絵は、矢田一祥「元寇図(海上)」で・・・「弘安の役(1281年)において、”元軍の船に立ち向かう総大将「少弐経資(しょうにつねすけ・19歳)」軍”の様子です。 写真左は、天窓のある明るい玄関ホールの天井部分です。右は、同じく玄関ホール出入り口上部に掲げられている壱岐の凧揚げの凧(たこ)です。壱岐島が鬼に支配されていた時代、ある若武者が鬼退治をやり遂げ、最後の鬼大将の首を切り落とした際、空に舞った首が若武者の兜にかぶりつき絶命した図を現したものだそうです。この凧は、壱岐市内の温泉施設や公共施設に掲げられています。 帰宅へ向けて ・・というわけで、周遊を終え、帰りも午後4時のフェリーで博多埠頭に午後6時25分に無事戻りました。フェリーに乗船するまでは、雨は降っていませんでしたが、博多埠頭に到着すると多少強い雨が降っていました。この時点で、台風の影響でも山口県では大雨警報が発令中でした。近いのに、天候にこれだけの違いがあるんですね。新幹線で帰宅する前に、博多駅に隣接するヨドバシカメラ博多駅店ビル内4階にある回転寿司店「魚べい」で夕食を済ませました。ここは、新鮮で安くて美味しい寿司が手軽に食べれるので便利です。REALISTは、博多に来れば必ず立ち寄るほどのお気に入りです。最近は、ここを訪れる韓国人や外国人旅行客も多いですね。当日も、旅行に来た若い女性やカップルの韓国人でいっぱいでした。おそらく、安くて美味しいという魅力で口コミで訪れるのだろうと思います。・・というわけで、とても楽しく有意義な旅を過ごすことができました。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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