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本日 一日目の音楽祭が終りました!
今日の出演はコーラス2団体とリコーダーです。コーラスはこの時期 風邪が流行ってメンバーが少ないので、大変! でも みなさま がんばってくださいました。 それに引き換え リコーダーのグループは大所帯。いつになくよかった!!!何回も音楽祭にでてるのに、今回ほど満足できたことはなかった。演奏曲はモーツァルトにちなんで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 聞くところによると、今日は一生懸命指揮をみてたって。やっぱり指揮は見なくちゃね~ 今まであわなかったのは、指揮を見てなかったからか~ でも 指揮をみてて譜面を見失った!!!こんな 楽しいグループなんです。 さて その「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」ですが、これは全13曲中最後のセレナーデで、題名はモーツァルト自身が目録に記述したもので、直訳すると「1つの小さな夜曲」つまり「小夜曲=セレナーデ」、「セレナーデの中のセレナーデ」と言える曲なんです。略称の『アイネ・クライネ』でも通用しますが、正式名称は『セレナーデ第13番 ト長調 K525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」』です。4楽章からなっていますが、今日は1楽章のみでした。 『アイネ・クライネ』を作曲する前年(1786年)には、『歌劇「フィガロの結婚」』が大当たりしました。 年が明けて87年1月にプラハに招かれ、妻コンスタンツェを伴い『交響曲第38番 ニ長調「プラハ」』を手土産に訪れた際に、プラハの巡回劇団の座長パスクワーレ・ボンディーニから次の演目として『歌劇「ドン・ジョヴァンニ」』(1787年)を依頼されました。これはフリーランスの音楽家として自立したモーツァルト にとって願っても無い注文で、台本を『フィガロ』で成功したロレンツォ・ダ・ポンテに再び頼み、『ドン・ジョヴァンニ』の作曲に全力を傾けることになります。 ところが1787年という年は、モーツァルトにとっては色々予期せぬことが起こり慌ただしい年になりました。 先ず3月半ばに父レオポルトが重病になり、また4月末頃からモーツァルト自身も病気になって寝込んでいます。そして5月28日に父レオポルトは他界しました。 面白いのは父親が重病に臥している時はモーツァルトには珍しく短調の曲を何曲か書きますが、父親が亡くなると重荷を降ろしたようにまた明るい長調の曲に復帰しています。 モーツァルトは『ドン・ジョヴァンニ』上演のためプラハに向け9月初旬にウィーンを発っていますので、『アイネ・クライネ』は2大オペラの狭間に父の死とベートーヴェンとの邂逅後の6月頃作曲を開始し8月には完成されて何らかの催しに供された”生活のため”の音楽だったようです。 はい。今日はちょっとお勉強でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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