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2011年04月29日
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カテゴリ:つれづれ
 
震災以来、NYの日本人の方と会うと
原発、震災の話題になることがよくありますが
NYのみなさんがよく言われているのは、一般的に日本に住んでいる人よりも
NYに住んでいる方たちの方が原発や被災地の現状について
危機感を持っている人が多いということ。

私はツィッターでもFacebookでもミクシィでも
つながっている方の多くは、そういうことに対しての意識を持っている人たちなので
様々な情報が自然と入ってくることもあって
日本でもみんな危機感をもっているのだろうなあと思っていたのですが
実際はそうではないとのことで、
東京などでも、被災地に対して、全く人ごとのようだったり
原発に対する危機感も持っていなくて
NYの方たちが、日本の友人や家族に向けて
そういう情報を伝えると、
「おおげさな反応じゃない?」と言われることもあるそう。

なるほど。
情報をどう伝えるのか?どこまで伝えるのか?
というのは、私はいつも考えるところで、必要以上に不安にさせてしまったり
知っても対策が立てようがない事実を伝えても意味はないかもと思うのですが
これだけの状況になっていて、その認識がない、全く危機感がない
知ろうともしないというところに、私たちの抱えている闇の深さを感じます。

といっても、ネットなどを通じてしか、今、何が起こっているか?
を知ることが難しいのも事実。
見ていると、日本であちこちで起こっている脱原発デモも
参加している人の多くは若いネット世代。
昔はよく「最近の若いものは」なんて、
若い世代を批判する言葉として言われたものですが
最近は、全く逆だなあと。
やはり若い世代というのは
これまでの既成概念に捕らわれない柔軟性を持っている人も多いし
必要な情報を収集する能力も、また、地位や名誉という失うものがない強さから
行動にも結びつきやすい。

と、こちらは今日のニュースの中で心に残ったもの。

内閣官房参与 抗議の辞任

内閣官房参与の小佐古敏荘・東京大教授(放射線安全学)は
29日、菅直人首相あての辞表を首相官邸に出した。
小佐古氏は国会内で記者会見し、
東京電力福島第1原発事故の政府対応を「場当たり的」と批判。
特に小中学校の屋外活動を制限する限界放射線量を
年間20ミリシーベルトを基準に決めたことに
「容認すれば私の学者生命は終わり。自分の子どもをそういう目に遭わせたくない」
と異論を唱えた。
「年間20ミリシーベルト近い被ばくをする人は
原子力発電所の放射線業務従事者でも極めて少ない。
この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは学問上の見地からのみならず、
私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と主張した。



ああ、内閣にも(東大にも)こういう人間的な心を忘れない人っているんだなあと。
いや、原発安全、放射能問題なし、と言っている人たちも
もしかすると、心底、本当に安全だと信じて言っているのかもしれないし
そうでなくても、いろんな事情でそう発言せざるを得なくて
内心は罪悪感で苦しんでいるのかもしれない
などといろいろ想像はしてみるわけですが
そんな中で、自分の立場を捨ててでも、
人間的な心からこれを許すことはできないと訴える人がいる。
そう、いつだって、こういう人たちがたくさんいたよなあと。
そのことが、単純な私はやっぱりうれしくて、
また今日もジーンと感動。
こういう方たちが発言することで、人々の意識もまた変わってくるなあと。

それでもやっぱり、現実を知ろうとしない人たちもたくさんいるわけですが
けして、その人たちが悪いということではなく
見ないようにして自分自身を守るしかない状態、ということもあります。
だから、それを批判するより
気づいた人たちが、今できることをやってゆくだけだなあと。

最後にこれは、今日、私の友人が、Facebookであげてくれていた内容です。

道徳的か否かを知りたければ動機を見よ。

カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果では無く、
その行動を起こす意図で決まるという。
大事なのは動機であり、その動機は決まった種類のものではならない。
重要なのは、なんらかの不純な動機のためではなく、
そうすることが正しかったという理由で正しい行動をとるかだ。
「たとえこの意思がその意図を実現するための力をまったく欠いていたとしても、
あるいは最善の努力を払ってもなお、何も達成できなかたっとしても、
その意思はあたかも宝石のように、
すべての価値を内包するものとして、それ自身のために輝く。
もし義務以外の動機、たとえば私利から行動しているなら、
その行動に道徳的価値は無い。
カントに言わせるなら、これは私利だけではなく、
必要性、欲望、選好、生理的欲求を満たそうとするあらゆる試みに当てはまる。
カントはこのような動機、彼によれば「傾向性の動機」を、
義務の動機と比べ、義務の動機から生じた行動だけ
が、道徳的な価値を持つと主張する。

(今を生き延びるための哲学)マイケルサンデル(鬼澤忍訳)早川書房 (p.146)


私はこの本を読んでいないので、作者の真の意図というのは
よくわかっていないし、カントも哲学的な話も得意ではないのですが、
ここでいわれている義務というのは、他者から与えられた義務ではなく、
自分自身の内なる声に従うという義務だと
私は解釈しました(全然違うかもあっかんべー

つい、私たちは「そんなことして何になるんだろう」
とか「こんなことが人に貢献できるとは思わない」とか
結果ばかりを考えがちですが、
動機がすべてなのだということ。
そして、その動議は、自分自身の本質に従うという義務に基づいていること。

例えば、道を歩いていてゴミを拾うという同じ行為をしたとしても
そうしなければ、人から非難されるのが怖いから拾うのか
または、人からいい人に見られたいからそうするのか
または、美しい街にしていこうという意識からそうするのか

によって、それは全く違ったエネルギーになってくるということ。

カントはそんな風にはけして言わなかっただろうけれど
結局、言い換えれば、その動機が愛に基づいているかどうか?
ということなんじゃないかしら、と思うのです。

ですが、愛に従うことができる人というのは
魂の本質とは違うもの、
(例えば虚栄心であったり、偽善であったり、恐れであったり
それはいろいろありますが)
を手放すことができた人のみなんですよね。

結局、一人一人の意識が変わらなければ社会も変わらない
今日もそこに行き着くのです。

それぞれの行為が、例えどんな結果をもたらすものであったとしても
その動機が愛であったなら、
それは瞬時にすべてを高次のものへと高め、
最終的には、様々なレベルで変容させてゆく。

そんなことを感じています。





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最終更新日  2011年04月30日 16時04分02秒
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