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カテゴリ:つれづれ
言葉はエネルギーですが、そのエネルギーは言葉自体にあるのではなくて、 その言葉を発する人がどういう意図でそれを使うかによって、 その方向性が決まってきます。 例えば、自分の通りたい道に人がいて通れないような状況で 『Excuse me』(失礼します)と言って通らせてもらう時 口で言っているのは「エクスキューズミ~」であっても 人によっては、 「ちょっとそこじゃまなのよ、私の通り道よ、のきなさいよ」 と言うエネルギーを発している人、NYには、時々います そういうエネルギーの言葉は、やっぱり心地悪い感じがしますよね。 言葉そのものが別に悪いものでなくても、 そのエネルギーが相手を批判したり、攻撃するものであったら それは、やはり、攻撃していることと同じになります。 例えば、おさむはよく私に向かって 「のりこは、ほんとばかだなあ」とか「あほやなあ」とか言うのですが それは、私にとっては 「お人好しやなあ」とか「一生懸命やなあ」という時に使う 愛情のこもったエネルギーなので、全く傷つかないし、 逆にちょっとうれしくなります その言葉自体ではなく、そこにどんな想いや意図をこめるか?によって 伝わるものは、全く変わってくるなあと。 でも、その言葉のエネルギーに関わらず、言葉そのもので反応する人が 案外多いようです。 誰々が~~と言った、というその~~の部分にこだわって 「あんなことを言うなんて許せない」とか「ひどい」 などとなることがありますが、 相手がどういう意図や想いでそれを伝えているのか?を 感じ取れないと、コミュニケーションは行き違ってきます。 そもそも、言葉の定義は、ひとそれぞれ全く違うものなので 自分が受け取っているような意味で 相手はその言葉を使っているとは限らないのですから。 先日、「五体不満足」の著者、乙武洋匡さんのツィッターで、 それを象徴するかのような、やり取りが繰り広げられていました。 彼は、半ば冗談で 「よく考えたら、「アホの坂田」って、すごい通称だよなぁ。 そんな名前で親しまれるって、ホントに人柄だと思う。 うーん、僕だったら…「カタワの乙武」?これじゃ、テレビ出れないか(^o^;」 とつぶやいたのですが そのつぶやきを見たひとの中で 「かたわなんて言葉を使わないで。悲しすぎる」と反応した人がいて それに対して、彼がいくつかのメッセージを伝えていました。 そのやりとり、こちらの中から一部抜粋。 「カタワ」を「障害者」に変え、こんどは「障がい者」に変える。 そうやって、やわらかい言葉にすり替えることで、本質を見て見ぬフリする風潮。 それで何か解決するの?声高に「差別用語は良くない」と叫ぶ人ほど、 「私は差別してないです」というポーズを取りたいだけだったりする。 無意味だよ。 「背が高い」って、ただの身体的特徴を指す言葉だけど、 たとえば背が高いことを気に病んでいる女の子には、使うべきじゃない。 でも、だからと言って、誰も「背が高い」という言葉を 「差別用語だ」とは言わないよね。 言葉とは、そうして相手との関係性によって選び、口にするものだと思うんだ。 「カタワ」と言われても何とも思わない人もいれば、 「障がい者」という表記でも、傷つく人がいる。 結局は、目の前の相手がどう思うかを想像し、言葉を選んでいくしかないのに、 「カタワ」はNGで、「障がい者」はOKと誰が決めたのか。 誰の感情に合わせた線引きなのか。まったくわからない。 「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら 「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。 その言葉で傷つく人も、少なからずいる。 でも、そんなのバカげているでしょう。 目の前の相手の気持ちを考えて、言葉を選ぶでしょう。 僕らには、その力がある。 なのに、障害者に関する呼称については、一対一の関係性を無視して、 一律に、社会的に、「カタワ」「めくら」「つんぼ」はNGとされる。 それが、なぜなのか――という疑問を提示したいのだ。 その決めごと自体が、障害者に接することを 腫れ物にさわるような関係性にしてしまっていないだろうか。 誤解のないよう言っておくが、僕は他人様に向かって「カタワ」だの 「ダルマ」など口にしたことは一度もない。 すべては、自分について。 それでも「そんな言葉使うべきじゃない」と言う人がいる。 「傷つく人がいるから」と。それなら、「僕は背が高いんだ」も言えなくなる。 その語に傷つく人がいる。 相手を傷つける言葉を言っちゃダメ。そんなの当たり前。 小学校で習ったでしょ。でも、相手がどんな言葉に傷つくかは千差万別。 その関係性から探っていくしかない。 そこに思いやりが生まれ、ひょっとしたら愛が生まれる。 でも、対障害者には、初めからオールNG。「探っていく」が飛ばされている。 障害者だって、一律じゃない。言葉に無頓着な人もいれば、傷つきやすい人もいる。 差別用語って、そんな当たりまえの前提を無視した決めごとのような気がして、 僕は好きじゃない。一人ひとり、目の前の相手を見て、 感じて、言葉を選ぼうよ。 そんなの、相手が健常者だって、障害者だって、同じだよ。 これは、もともとが乙武さん特有のメッセージ性を含んだジョークと言うか、 彼だからこそ、「かたわ」などという言葉も使うことができると思うのですが こういう言葉を使うことで 彼は、障害者に対して、腫れ物に触るような扱いは必要ないことや 障害というものに対する人々の認識そのものに 警告を鳴らしているように感じるのです。 だから、こういった反応があることは、 彼の中では、想定内の展開になっているのかもしれないなあと。 随分、昔のことですが、チェロキー族の黒人のミュージシャン オスカーブラウンと一緒にCD制作をしていた時期があって よくオスカーとご飯食べに行ったりしていたのですが 彼がよく言っていたのは 「のりこ、黒人を差別するやつらに会うと、 すぐに感覚でわかるんだよ。 そして、そういうやつらに限って、言葉はとても丁寧なんだ」 と言っていたのを思い出します。 言葉が逆に丁寧になるのは「私は差別していない」 というポーズのためなのですね。 乙武さんが、ここでこのように言われているのは たぶん、そういう人の言葉の奥に潜んでいるエネルギーを これまでたくさん感じて来られたからなのだろうなあ と思うのです。 乙武さんの言われるように、言葉は、それを交わす二人(またはそれ以上)の間で どういう関係性があるか?で変わってくる生もの。 同じ言葉が、その二人の関係によっては、愛情表現にもなるし 差別にもなるし その時々の感情や想いによっても、変わってくるでしょう。 例え、同じ言葉でも、違う人から言われたら 全く違ったものになるのですから。 すべてはエネルギー。 口でどんなに上手く言い繕ったとしても 私たちが心で感じていることは、すべて相手にエネルギーとして伝わってゆきます。 (例え相手が意識上ではっきりとは自覚していなくても) 逆に、相手の発した言葉そのものにこだわって 「傷つく」という選択をするのは、無駄のような気がします。 いえ、本当はそれも無駄ではないのですが なぜ、その言葉に反応したのか?を自分の中に見てゆく必要があります。 そして、相手は、そんな風に受け取られるなんて、 全く思ってもみないのかもしれないということを意識してみると、 何かコミュニケーションの切り口も見えてくるかもしれません。 だから、言葉そのものにとらわれず 言葉の中にあるエネルギーを感じることが大切だなあと。 対面でないと言葉のエネルギーは伝わりにくいですが 文面でも、全体を読んでゆけば、ある程度、伝わってきます。 (でも、文面での言葉のエネルギーは時々限界を感じますが) 言葉はかなり限定された、プリミティブなコミュニケーション手段。 未来の私たちは言葉を越えた「ホリスティックな」コミュニケーション手段が (例えばテレパシーのような)できるようになるかもしれない、 ずっと、そう思ってきたのですが 実は、もうすでに今、私たちの多くは それを自然とやっているのでしょうのね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年07月02日 14時34分24秒
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