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カテゴリ:つれづれ
早いものでハワイから戻ってきて、約2週間が過ぎました。
もう、ハワイでの日々が遠い昔のことのように感じます。 ハワイから戻った後、忙しすぎて(仕事も遊びも) 落ち着かない感じがあったのですが ようやく、ここ数日で自分のセンターに戻ってきた感じです。 今、自分がどんなところにいるのか? そして、これから何が必要なのか? あらためて観えてきたような気がします。 ということで、いろいろ話したいことはあるのですが まずハワイから戻ってから4、5日間は 何となく自分の中で今一つ気持ちが乗らない感じがありました。 いつもなら、仕事の前に朝起きると「よ~し、今日もやったるで~」みたいな ちょっとしたわくわく感を感じるのですが それがなく、何かが胸に引っ掛かっている感じ。 とはいえ、クライアントさんが来られて、セッションが始めると エネリギーが湧いてきて、が~と集中したり 友人とお酒飲むのも楽しいし、クローゼットの片付けを集中的にやってみたり などはやる気があるのですが とにかく、これからのことに対する決断と選択ができないのです。 決めるべきことを決められないので、メールのお返事も溜まりまくり。 いつもはすぐに返事をする私からの返事がないので ロンから『のりこ、何かあった?」とメールがあったほどでした。 この一つの要因としては、私の身体から上がってきたのは ハワイから戻ってきた翌日に起こった熊本での地震による 集合無意識にアクセスしていたことがわかりました。 こういった地震や災害によって、人の悲しみや恐れ、不安、虚しさといったものが 集合無意識として強くなるわけですが その集合無意識にアクセスするのは 実際に被害を受けたかどうか、地震を体験しているかどうかなどには 全く関係がないのです。 少し前にも、熊本の地震が起こったことで 不安感が出てきたというクライアントさんが来られたのですが その方の身体に聞いてゆくと、災害や被害にあった前世とのつながりとともに 集合無意識とのつながりが出てきました。 とはいえ、311の時にそれは充分に体験していたし また私が今回もアクセスしているとは全く思っておらず。 私の実家の福岡でも震度4ぐらいの地震があったそうなのですが 私は「うちは大丈夫だな」と感じたので 地震の後もしばらく電話もしなかったぐらいでした。 何人かの人たちに、実家の状況を聞かれたこともあって 10日以上経ってから、ようやく電話したのですが やはり全く大丈夫で 母の実家は熊本なので、親戚が熊本にいるのですが 熊本在住の叔父や叔母たちも水が止まったり、ガラスが割れたりしているものの 大きな被害はなく無事でした。 と、これはどうでもいいことなんですが、地震のことで、電話したら私の母が 「わざわざ電話してくれたの?やさしいのね〜」 と言ったので、え?そうなの?と。 いや、普通、実家の近くで地震があったら 心配して電話するものだろ〜と思うのだけど。。 (しかも10日以上経ってるし、、) 地震や災害に対する恐れや不安がないのも遺伝かしら? 今も福岡でも時々、揺れているそうで 母の周りでは夜、眠れない人たちもいるそうですが 母は、子供の頃から地震には慣れていることもあって いつもぐっすりと眠っているとのことでした。 (このあたりまさに遺伝だね、とおさむに言われたのだけど) そんな私が、今回、なぜ集合無意識につながったかというと 熊本の地震のニュースを聞いた時に 一番最初に思い浮かんだのは 1ヶ月前に南阿蘇に引っ越しした友人のことでした。 彼女は私にとっては、ソウルファミリーであって いつも愛に溢れたエネルギーを送ってくれる、大切な友人。 彼女自身は無事でしたが、彼女の家は半壊してしまい しばらく避難生活だったので、いろいろと気になり 実際の被害の様子を知りたくて 熊本地震に関する報道写真をあれこれとネットで見ていました。 崩壊した家の前で呆然と立ち尽くすおばあちゃんとか わんわんと泣きながら電話している高校生とかの写真を見ていると そこにあった、人々の無念さとか、不安とか、悲しみの エネルギーが強烈に伝わってきました。 あらためてこういった写真や映像のエネルギーを伝える力は、すごいなあと。 そして、その友人との魂レベルでの深いつながり感が さらにそこにアクセスすることになっていました。 私の場合、集合無意識にアクセスしていても もともと、将来や災害などに対する不安や恐れはないので ただ何となく気分が乗らない、という程度でしたが もともと将来に対する不安があったり 人に同情したり、人をケアする気持ちが強くて 人のエネルギーと共鳴しやすい方たちは こういったことが起こると、それぞれの中の 不安や恐れや悲しみや怒りが増幅されてしまうだろうなあと。 遥かニューヨークに暮らしている人でさえ、そういうこともあるのですから 日本でいつも地震のニュースや映像を聞いている人たちの中には 人と共鳴しやすい人たちも多いだろうし ましてや、実際に地震の被害にあった方たちや 今も続いている余震の中で暮らしている方たちの 不安や恐れや悲しみはどれだけ大きいことでしょう。 だからこそ、外にいる人たちの今の意識やエネルギーが大切だなあと。 いろんなところで、私たちができることをやっていきましょう と言われていますが、もちろん、私たちができることは 物資やお金の援助をすることだけではなく 愛を送ること、祈ること、いろんなレベルでありますが 何よりも大切なのは、遠くにいる私たち一人一人が 今、この瞬間に人生を楽しんでいるということ。 それが全体的な集合無意識に影響を与えてゆくのだと感じるのです。 ということで、そこへのアクセスを解除した後は 私が今、やるべきことをやれるようになったわけですが 今回、決断と選択ということに関して あらためていろんな気づきがありました。 誰にとっても、人生は決断と選択の連続。 細かいところで言えば、今から、Aに行くかそれともBにするか、 彼女と明日会うどうか、これを買うとか買わないとか 私たちは毎日、数限りなく、選択を繰り返しています。 そのほんのちょっとの選択の違いが、人生を大きく変えた、ということなんて 山ほどあり、あの時、たまたま~に行って、偶然、あの人にあったから 今、私はこの仕事をしている などと、いうことは数限りなくあるわけですよね。 そして、特にこういった災害にあったら 自分はどういった決断をするのか?と 誰もが一度は考えたことがあるでしょう。 でも、不安や恐れ、心配がベースにあると 様々なことを選択していくのは難しくなるのです。 だから、外部の人たちが 「疎開すればいいのに」などと思ったとしても 実際に被害にあっている状況だったり ショックや悲しみや不安がまだ残っている状態では 自分や家族にとって、これからどうすればいいのかを選択する力は 弱くなってしまうのは当然のこと。 選択の力、決断力というのはチャクラで言えば 第6チャクラ(直感)とハートチャクラ(自分の感覚を受け取る力)なのですが 恐れ、不安ベースの時は、ハートが閉じてしまうので すぐに決められなくなるのです。 今回、私自身で、集合無意識にちょっとアクセスしていただけで 選択や決断力が弱まることを実感して そのことをあらためて感じたわけですが さらに、どんな決断や選択でも、他の人が多く関わってくればくるほど 難しくなるということを実感しています。 というのも、ここ最近、私は来年の私とおさむで開くハワイでのリトリートや 次回のフィボナッチ&アーキュトニックのクラスについて できるだけ早く決める必要性に迫られているからなんですが。 ロンは『のりこが船長だから、すべてのりこの意向に従うよ」と言ってくれて その気持ちはとても有り難かったのですが これが自分だけのためのことだったら、さくさく決められるのだけど いろんな人たちのためのものである以上 すぐに決断できない様々な要因が出てくるわけですね。 私の持っている限られた日程の中で、すべてをどうオーガナイズすればいいのか どこで開くのか、どういうカリキュラムで、日程は何日にするのか いくつかの選択の可能性が出てきます。 で、そういう時は、焦って決めるのではなく、いくつかの選択肢の中から ある程度の布石を打ってみて それが、どう流れてゆくのか状況を待ったり または何らかの明確なサインが来るのを待って 最終的に決めるという選択のやり方を私はよくやります。 すると、不思議と自然とある道に導かれてゆくことが多いのです。 先日メールをくださった方から 「きっとのりこさんのお心が動いたタイミングが 私たち受講生にとってもベストな気がします」 とあって、とてもうれしかったです。 この場を借りて、ありがとうございます♪ どんなことであれ、例え、私が選択していたとしても 本当は「私」の選択ではない、と言えるのだなあと。 話はかわりますが たまたま、先日、おさむと「魔法少女まどか」なるアニメを見たのですが この幼稚とも言えるキャラクターとは裏腹に、かなり難解なストーリーで その中で、決断と選択に関することがあり なかなか興味深かったです。 簡単にストーリーを説明すると まどかは、ごく普通の一見、何の取り柄もない高校生(中学生?)で 家族や友達との時間を楽しみ、幸せに暮らしていたのですが ある時、魔法少女として生きるかどうか?の選択を迫られます。 その内容は端折りますが、いろいろあって、最終的には、この次元では 彼女自身は魔法少女への道を選択しなかったのですが 別の次元、パラレルユニバースでは彼女はその道を選択しており そして、またある次元では、魔法少女にはならないけど 魔法少女たちや世界を救うための神の化身のような存在となる という道を選択するわけです。 その神の化身のような存在になるためには、両親や友達とも別れ 両親や友達の記憶にも彼女の存在自体が残らない、という状態になるわけですが その中で彼女が「私は両親や友達の側にいたかった。でも神の化身への道を 選択したことに後悔はなく、これでよかった」というようなことを言うわけですね。 ある「私」は両親や友達と一緒にいたい でもまた別の「私」は神の化身となり世界を救いたい。 なるほどな〜と。 どちらも「私」であり、そのどちらの道も喜びである以上は 例え、どちらを選んだとしても、後悔はないのですが どちらを選んでも、もう一つの道への憧れは残るのかもしれないなあと。 自分のための選択をする のは自分軸で生きるという意味で大切なことなんですが 一方で、果たしてそれがどのレベルの「私」なのか、によって 選択は変わってくるわけですね。 もちろん自己犠牲の選択は あらゆる次元での歪みをもたらしてしまうので それが喜びベースである必要は確かなことなんですが。 この様々なレベルでの「私」のバランスを取りつつ どう選択をしていくか?が、去年からのテーマであることは漠然と感じていたのですが ここ最近、さらにそれを強く感じているわけです。 言葉にすると、ワンネスの喜びを体現していく「私」としての選択と 分離した個人としての喜びを体現してゆく「私」としての選択 ということになるのかなあ。 もっとも「私」という言葉自体が、全体からの分離を表しているので 本来はこの表現はおかしいのですが どこからどこまでが「私」もしくは「私という意識」だと言えるのか?は とても曖昧なものだなあと感じます。 そして、女性の場合は「女としての私」という ある意味、別の次元とも言える「私」があるので さらにバランスを取るのが難しくなって、おもしろいのかも (「女としての私」としては「船長」と言われると、ちょっと微妙なんだけど。。) ということで、私の今の感覚を上手く伝えることをできたかどうかわからないのですが とりあえず、今日はここまでで〜〜♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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