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カテゴリ:源義経黄金伝説●(2012版短縮版)
源義経黄金伝説■第34回
作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所 Manga Agency山田企画事務所 ★漫画通信教育「マンガ家になる塾」★ ★you tube★ ■2 一一八六年文治2年 足利の荘・御矢山(みさやま) 頼朝は、皆より1段高い御矢山競技場土壇上から、西行の流鏑馬を、見 て満足しょうとした。 今、七十歳にならんとする西行は、昔のこと、北面の武士である事を 思い起こそうとしていた。この老躯に、果たして役目が務まるか。 しかし、わづかながらでも、体の反応が残っているだろう。 それにかけるしかあるまい。 まだ、我が生涯の目的のため、負けるわけにはいくまい。 当時の馬の大きさは、前脚のひずめから肩の一番高い部分までを 体高とした、日本の在来馬は、四尺(約121センチメートル)を通例とする。 軍馬の場合は少し大きく四尺三寸(約130センチメートル)が標準である。 西洋のサラブレットの体高が160~170センチメートルなので、西洋高のポニー の大きさに相当する。 中国の軍馬の条件は130約121センチメートル以上であり、秦始皇帝の兵馬俑 にある馬俑の平均体高は、121センチメートルであり、アジア地方草原馬の 標準といえた。 当時の木製弓は、弦を外した上体では反りがなく、直線で樋のある腹側に 弦をそのまま掛けている。 木の性質から弓はしならず、世界級大きなものとなり、平均で7尺2寸 (約210センチメートル)となり、馬の体高より大きい。 弦は、麻の繊維を錬り、その上に補強のため漆を塗る、あるいは、糸で 巻き閉めてから漆を塗る。 矢は、鏃(やじり)矢羽、ヤガラからなる。矢の長さは、握り拳ひとつを1束とし、十二束(約83センチメートル)が標準であった。ヤガラは本体部分で篠竹をつかう。 鏃は、武士の流鏑馬には、鏑矢が使われている。 西行は、見事に、流鏑馬を行い、的を打ち据えていた。 2度3度、流鏑馬の走路(さぐり)を走り終え、的をすべて当てていた。 賞賛の叫びが、下野の国足利の荘・御矢山競技場にこだましていた。 この時期は、弓矢道が戦いの常道である。戦いの主役は刀剣ではない。 頼朝は考えている。この西行の藤原秀郷流の武門の技を、まして、70歳にも なる男の見事さを、この坂東御家人の前で、見せるのは、 頼朝は、歓声の中を、急に立ち上がった。扇子を振り上げている。 「見事じゃ、見事じゃ、西行殿、さすがは、俵の藤太。藤原秀郷どのの御子孫じゃ」 藤原秀郷は、弓矢の達人として、東国の御家人からの崇拝の的である。昔語りに 「近江、三上山の大百足を退治し、竜神から小俵、反物、鍋、武器をもらったという」 伝説が、この時代の人々に埋め込まれている。 「西行殿どうですか、射組の試合はいかがか」 流鏑馬で、2人が合いむかい、お互いの相手を的に打ち合おうというのである。 観客から驚きの声があがって、騒がしかった。 「対戦する相手は、そうよのう、、」 頼朝は、しばし考え、口を開いた。 「そうだ、私がつとめよう」 一層の興奮が、周りの武士たちを驚かせ、感動させる。 頼朝は弓の上手として、子供の頃から有名であった。 「百発百中の芸を振るいて、合い戦うる事数度に及ぶ、 射殺すところの者これ多し」と当時の文献にある。 この坂東で、先輩にあたる京都の北面の武士と射る合いをする事も 無駄ではあるまい。と頼朝は思う。 「頼朝様、それは、、」 頼朝の傍らにいた、大江広元と、文覚が、同時に叫んでいた。 続く2010改訂 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所 Manga Agency山田企画事務所 ★漫画通信教育「マンガ家になる塾」★ ★you tube★ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.04.05 22:14:15
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