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カテゴリ:張恵妹
夏の風物詩のひとつにスイカがあります。
スイカの原産地は意外なところ、南アフリカだそうです。それが11~12世紀には中国に、16世紀初頭にはヨーロッパに、17世紀にアメリカに伝わっていて、日本には17世紀中期に隠元禅師が中国から持ち帰ったといわれています。 このスイカは中国では水分が多く、夏出回ることから『水瓜』とか『夏瓜』ともいわれて居ますが、一般的には西から伝わったとの意味で『西瓜 xi1gua1(シーグァ)』で、日本と同じです。 ものの本によると、この『シーグァ』が訛って『スイカ』になったと書いてありましたが、小生の意見はちょっと違います。 『西(にし)』と言う漢字は、現在の中国語では『xi1(シー)』です。日本ではその他『サイ』と読みます。この『サイ』は「呉音」読みです。「呉音」読みは漢字を輸入した遣唐使の時代からはじまっています。上海の南、寧波に渡った遣唐使はそこから揚子江を登り洛陽(西安)まで行っています。遣唐使の一部は寧波に留まりお経を写経しています。そのお経と一緒に漢字が輸入されたのですが、当然、お経の漢字の発音はその呉国の発音「呉音」です。今もお経はすべて「呉音」で読まれていて「呉音」を別名『坊さん読み』ともいいます。一方、日本で漢字の読み方を漢民族が使っている「漢音」読みにしようという動きが起こります。その「漢音」で『西』発音すると『セイ』になります。しかし、「漢音」読みは長年「呉音」読みを使ってきた仏教界から反対を受け、完全には定着しなかったようです。現在は、仏教は「呉音」読みを使用するなら、キリスト教は「漢音」読みにしようと、関西学院大学とか西南大学とかのキリスト教の学校では『セイ』と発音しています。また、禅宗と一緒に入ってきた発音が「宋音」です。中国の宋王朝時代の言葉です。この「宋音」読みで『西』を発音すると「スイ」になります。よって、『西瓜(スイカ)』は「宋音」読みだと思っています さて、今日紹介の曲は、そんな『西瓜』とは何の関係もないですが(w)、 張恵妹 Zhang1 Hui4Mei4/アーメイ の 知道 Zhi1dao0 [分かっている] です。 久しぶりに彼女の曲を聴いて、やっぱり歌うまいなって思っています。歌手ですからあたりまえと言えばあたりまえですが、その上手さが違います。悲しい歌は、より悲しく、優しい歌は、より優しく。彼女の独特の声もすごく素敵です。 昨年、3月に公演された宮本亜門演出の舞台劇『トゥーランドット』に出演したアーメイ、当初、陳慧琳(ケリー・チャン)が出演予定だったらしいですが、彼女が怪我をしたためアーメイが代役出演、そのアーメイの歌声を聞いた宮本亜門は『意外と歌がうまく良かった』と言ったそうです。本当に、 失礼なヤツです。 なんども言います。 失礼なヤツ!! もう一度、失礼なヤツ!! 彼女がどんなにすばらしい歌手なのか知らないでオファーしたのかと思うと、たいしたヤツではなかったことが良く分かりました! 知道/張恵妹 既然都知道 既然睡不著 不如就把黒夜熬成破燒 我為自己驕傲 我終於可以 不靠感情這様過来了 想[イ尓]是很好 但我的心在退燒 逃 假装是在尋找 我 明明就不需要 人的心若是関不牢 愛到不知如何是好 [イ尓]能給多少 突然我就是不想要 逃 走天涯到海角 燒 涙早就不知不燒乾了 [イ尓]愛的誰都看得到 可是我就很不想要 所以我這様放開了 怎麼我会錯乱了心跳 是什麼譲我不堪其熬 既然都知道 愛過了就好 oh~ 逃 走天涯到海角 燒 涙早就不知不燒乾了 [イ尓]愛的誰都看得到 一相情願譲我依靠 却不曾問我要不要 分かっている/アーメイ すでに全て分かっている すでにもう眠れない 暗闇を煮詰め燃やし消してしまうにはおよばない 私は自分自身の誇りだし ついにできる いいえ想いにまかせてこのように着てしまった あなたを思うことはとても素敵だけれど 私の思いは少しさめてきている 逃げる 捜し求めるふりをしてる 私 必要としていないのは明らかなのに 人の心を閉じ込めることが出来ないのなら 愛がどこに行こうと知らなくてもいい あなたはいくらかくれるけれど 私はほしくない 逃げる 何処へ行っても 熱く 涙はすでに涸れるこさえ知らない あなたの愛は誰に注がれているの 私は欲しいとは思っていない だから私このように手放したの どうして私こんなに混乱しているの 心揺れている 何が私をこんなに耐えられない 想いにさせているの すでに全て分かっている 愛したことは間違いじゃない Oh~ 逃げる 何処へ行っても 熱く 涙はすでに涸れるこさえ知らない あなたの愛は誰に注がれているの 一方通行の愛に私をさせる けれど私は必要なのかどうか問うことはない 張恵妹【Zhang1 Hui4Mei4】/アーメイ( 1972年8月9日生まれ、台湾台東、台湾の原住民族・ピヌユマヤン(卑南)族の出身。 彼女の魅力は抜群の歌唱力と、表現力。アップテンポの曲はパワフルで、バラードでは涙がこぼれてきそうなほどの情感を込めている。また、彼女は"QUEEN of LIVE"と呼ぶにふさわしい魅力を持っている。ステージングでは観客の心をつかみコンサートに参加させている。 彼女の母親は歌と踊りを愛するピヌユマヤン民族で、村一番の歌い手といわれていた。その母親の影響を受け彼女は幼少の頃から歌が大好きな子供だった。彼女は子供の頃、年2回ある村のお祭りで歌を歌うのが何よりの楽しみだった。友達が照らす懐中電灯をスポットライト代わりにして歌ったらしい。学生時代は合唱大会にも出場したが、歌手になろうとはも思っていなかった。転機が来たのは高校時代だった。病気入院中の父親を励ますため台湾のテレビ局台湾電視主催の勝ち抜き番組「五燈獎」に挑戦した。順調に勝ち進んだが、グランドチャンピオン目前にして風邪を引き、本番で歌詞を忘れ敗退。失意のためその後半年間、彼女は歌を歌わなかった。そんな彼女に病床中の父親が言った。「あの(テレビに出ている)人たちよりお前の方が歌が上手なのに、どうしてトロフィーを持って帰ってこないんだ?」当時父親の容態は相当悪化していた。彼女はもう一度「五燈奨」に挑戦する。毎週台東から台北に通い"五渡五關"と呼ばれる25人勝ち抜きを果した。しかし、手にしたトロフィーを渡すはずだった父親はその数日前に他界していたという。彼女はそれを父の墓前に供えた。その後「五燈奨」に優勝はしたもののなかなか歌手デビューの話はこなかった彼女は、台北に上京し姉の営む日本料理店を手伝いながら、従兄弟のバンドで歌い始める。そしてその歌声が評判を呼びフォワードミュージック(豊華唱片)にスカウトされる。当時はまだ原住民族出身のPOPS歌手は珍しかったのだが、レコード会社の先輩歌手である張雨生に目をかけられ、張雨生のアルバムのデュエット曲『最愛的人傷我最深』でデビューを果たす。そして1996年12月、自身のソロアルバム『姐妹』を発表。収録曲の『原來[イ尓]什麼都不要』とピヌユマヤン民謡のメロディーを取り入れた『姐妹』が大ヒットし、デビューアルバムにして台湾IFPIチャート史上初の9週連続売上げチャート第一位の記録をつくる。そして、台湾だけで累計売上げは100万枚を突破。1997年6月に発表した2ndアルバム『BADBOY』も9週連続売上げチャート第一位を記録、売上も100万枚を越え、台湾のみならず香港・シンガポール・大陸を席捲。デビュー半年で台湾音楽界のトップスターとなった。しかし1997年11月12日、プロデューサーであり、友であり恩師でもある張雨生が交通事故で他界。その悲しみを乗り越え、デビューしてわずか1年余りで高雄・台北のスタジアムコンサートを行い35000人を動員、台湾コンサート史上最高の動員記録を作る。 1999年には台湾4ケ所を皮切りに、ワールドツアーを敢行。台北では5万人を集め、当時単独コンサートが難しかった中国大陸でも、6万人を動員した首都北京の工人体育場から、広州・上海・昆明までコンサートを行っている。デビューして短期間で華人音楽界のトップに駆け上がった彼女、今や華人女性歌手のトップのひとりである。("A-Mei-Project"より抜粋) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年07月18日 22時35分10秒
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