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カテゴリ:C-POP男性歌手
東京の次はやはり、「北京」、でもオリンピックではありません。
日本人が「東京」にあこがれるのと同じく中国人も首都・北京にあこがれがあるのかはわかりませんが、数十年前に北京に行ったときから、北京は観光地として人気も高く、天安門広場や中南海の周辺、王府井などは、その中でも有名な観光地のひとつでした。北京オリンピック以降、鳥の巣スタジアムなども観光地のひとつになっているようですね。 この「北京」を題材にした曲があるか調べてみまたら、黎明の『我来自北京 』や隠蔵の『在北京』、以前紹介した名曲、陳昇や信楽団が歌った『One Night in 北京』などがありました。 そんな中から、今回はこの歌を紹介します。 汪峰 Wang1 Feng1 の 北京北京 Be3jing1Bei3jing1 です。 汪峰の曲については2年半ほど前に一度紹介して、今回で2度目です。この曲は比較的新しく2007年にリリースされたアルバム『勇敢的心』に収録されています。汪峰といえば少々度のきつい大きなメガネと長い髪、青い髭剃り跡が印象的ですが、今回は無精髭を伸ばし、気だるい曲に、気だるい歌詞とちょっとワイルドに成っています。北京生まれの彼しか感じられない「北京」が描かれているようです。 北京北京/汪峰 当我走在這里的毎一条街道 我的心似乎從来都不能平静 除了発動機的轟鳴和電気之音 我似乎听到了他燭骨般的心跳 我在這里歓笑 我在這里哭泣 我在這里活着 也在這里死去 我在這里祈祷 我在這里迷惘 我在這里尋找 在這里失去 北京 北京 Cafe館与広場有三个街区 就像霓虹灯到月亮的距離 人們在[才争]扎中互相告慰和擁抱 尋找着追逐着奄奄一息的碎夢 我在這里歓笑 我在這里哭泣 我在這里活着 也在這里死去 我在這里祈祷 我在這里迷惘 我在這里尋找 在這里失去 北京 北京 (Music) 如果有一天我不得不離去 我希望人們把我埋在這里 在這儿我能感覚到我的存在 在這有太多譲我眷恋的東西 我在這里歓笑 我在這里哭泣 我在這里活着 也在這里死去 我在這里祈祷 我在這里迷惘 我在這里尋找 在這里失去 北京 北京 北京の心/ワン・フォン 僕はこの大通りを通りぬけるたびに 僕の心はこれまで平静を保つことが できなくなってくる エンジンの爆音と電気の音を除けば 僕は彼女の蝋燭の芯のようなときめきを 聞いているようだ 僕達はここで愉快に笑い 僕達はここで泣き叫ぶ 僕達はここで生きてきて 僕達はここで死んでゆく 僕達はここで祈りをささげ 僕達はここで迷いつづける 僕達はここで捜し求めて 彼女はここで失う 北京 北京 喫茶店と広場のある三个街区 そこはネオンの灯りがまるで月まで届きそうだ 人々はもがきながらも互いに慰め寄り添っている もう少しで息絶え絶えになりそうな壊れた夢を 探し追い求めて 僕達はここで愉快に笑い 僕達はここで泣き叫ぶ 僕達はここで生きてきて 僕達はここで死んでゆく 僕達はここで祈りをささげ 僕達はここで迷いつづける 僕達はここで捜し求めて 彼女はここで失う 北京 北京 もし一日あるならば 僕は離れられなくなるのだろうか 人々が僕をここに埋もれさせてくれるのを望んでいる この場所こそ僕の存在を感じられるところ 僕を恋の荷物へと未練たらしくさせてくれるところ 僕達はここで愉快に笑い 僕達はここで泣き叫ぶ 僕達はここで生きてきて 僕達はここで死んでゆく 僕達はここで祈りをささげ 僕達はここで迷いつづける 僕達はここで捜し求めて 彼女はここで失う 北京 北京 汪峰【Wang1 Feng1】/ワン・フォン 1971年6月29日生まれ、北京市出身。4歳からヴァイオリンを習い始め、中央音楽学院付属小学校時代までヴァイオリンの勉強を続け、中央音楽学院付属中学、本科時代にはヴィオラを学ぶ。1989年ごろからはジョナサン・リーなどの影響を受け社会性を考慮した作詞、作曲を始める。1990年、中央音楽学院交響楽団の一員としてヨーロッパやアジア各地を回り、ロックへとあこがれる。1991年、全国ヴァイオリンコンクールで第2位の成績を修めるもののロックへの憧れを捨てきれず、1994年11月ロックバンド『鮑家街43号』(現在は「鮑家街楽隊」)を結成、ヴォーカルを担当。バンド活動のかたわら、他の歌手へ曲も提供。黄[糸奇]珊に提供した『等待』は、ヒットチャート・中国歌曲排行榜で1位となる。また、韓磊に提供した『如果風不再吹』は中国歌曲排行榜1999年度第4期最優秀の成績を収め、汪峰の名前が一躍有名となって、ソロ活動の足がかりとなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年10月18日 22時17分34秒
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