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カテゴリ:張恵妹
心癒されるもの、それはいろいろありますが...小生の場合は、やはり音楽です。
その音楽を英語では「MUSIC」と言うのはご存知のとおり、語源はギリシャ神話に出てくる、詩と音楽の女神「MUSA(ミューズ)」らしいです。 また、音楽の成り立ちは、諸説ありますが多くは宗教と関係しているようです。神のささげる踊りを手だすけるため、音を出してリズムをとったり、仏教では、お経を読むのに抑揚をつけて唱えたり、さらに、西洋宗教にしても賛美歌があったりで、音楽と宗教はけっこう深いつながりがあるようで、心のよりどころという意味では宗教も音楽とおなじかと思います。 でも、音楽は心の変化で聴きたい曲が変わってくるものです。個人的には、ひどく疲れたときは優しい曲のほうが心やすまります。また、少々落ち込んだりした後、リセットして新たに出直そうと思ったりした場合は、リズム感のある軽快な曲を好んで聴いています。さらに、結構ストレスがたまっているときは激しい曲などが好きです。 さて、本日紹介の曲は、その激しい曲、メロディーもそうですが歌詞の内容も少々過激です。 張惠妹 Zhang1 Hui4mei4 の 愛 什麼稀罕 Ai4 shen2ma0 xi1han3 [愛 何か珍しく] です。 タイトルを訳すのに少しとまどいました。「愛」と「什麼稀罕」の間がすこし開いているので、こんな風にしてみました。久しぶりにA-Meiの曲の紹介です。やっぱり、A-Meiはパワフルでセクシー、でいてチャーミング、A-Meiになら冷たくされても好きにならずにはいられないって感じです。 愛 什麼稀罕/張惠妹 什麼時候 [イ尓]開始対我説 奇奇怪怪 有些勉強的理由 我只好装着都不[小董] non non 我在想愛情怎麼有這麼多借口 oh yeh 那天晩上 [イ尓]有話対我説 [イ尓]的眼神 早已対我没有温柔 還怪我什麼都不[小董] non non 我在想[イ尓]為什麼總是有借口 三心二意的[イ尓]我不想再忍受 oh baby 愛 什麼稀罕 不要再等待 [イ尓]若是揺擺 只好説声Bye Bye 愛 什麼稀罕 我選擇孤単 [イ尓]若不敢愛 決定不算太晩 就是要從現在 把[イ尓][走早]出門外 oh yeh.... 那天晩上 [イ尓]有話対我説 [イ尓]的眼神 早已対我没有温柔 還怪我什麼都不[小董] non non 我在想[イ尓]為什麼總是有借口 三心二意的[イ尓]我不想再忍受 oh baby 愛 什麼稀罕 不要再等待 [イ尓]若是揺擺 只好説声Bye Bye 愛 什麼稀罕 我選擇孤単 [イ尓]若不敢愛 決定不算太晩 就是要從現在 把[イ尓][走早]出門外 ooh...yah... music 愛 什麼稀罕 不要再等待 [イ尓]若是揺擺 只好説声Bye Bye 愛 什麼稀罕 我選擇孤単 [イ尓]若不敢愛 決定不算太晩 就是要從現在 把[イ尓][走早]出門外 愛 什麼稀罕 不要再等待 [イ尓]若是揺擺 只好説声Bye Bye 愛 什麼稀罕 我選擇孤単 [イ尓]若不敢愛 決定不算太晩 就是要從現在 把[イ尓][走早]出門外 ooh...yah... 愛 何か珍しく/アーメイ いつからだろう あなたが私に言いはじめたのは とても奇妙です そんなに強いる理由があるの 私はただすべて分からない振りをしている 愛にはこんなにも多くの口実がどうしてあるのだろうと 私は思ってる ある日の晩 あなたは私に話があると言った あなたの瞳は はやくも私に対して優しさを失くしてた まだ私の何を責めているのかすべて分からない あなたは何のためにそんなに口実をつくるのかと 私は思っている あれこれと躊躇っているあなた 私にはもう耐えようとは思わない 愛 何か珍しく もう待つ必要なんてないわ あなたがもし動揺したとしても ただBYE BYEと声に出して言うだけ 愛 何か珍しく 私はひとりでいることを選んだの あなたにもし愛する勇気がなければ この決定はあまりに遅いとはいえないけれど 今からあなたを扉から外に追い出してやる 張恵妹【Zhang1 Hui4Mei4】/アーメイ 1972年8月9日生まれ、台湾台東、台湾の原住民族・ピヌユマヤン(卑南)族の出身。彼女の魅力は抜群の歌唱力と、表現力。アップテンポの曲はパワフルで、バラードでは涙がこぼれてきそうなほどの情感を込めている。また、彼女は"QUEEN of LIVE"と呼ぶにふさわしい魅力を持っている。ステージングでは観客の心をつかみコンサートに参加させている。彼女の母親は歌と踊りを愛するピヌユマヤン民族で、村一番の歌い手といわれていた。その母親の影響を受け彼女は幼少の頃から歌が大好きな子供だった。彼女は子供の頃、年2回ある村のお祭りで歌を歌うのが何よりの楽しみだった。友達が照らす懐中電灯をスポットライト代わりにして歌ったらしい。学生時代は合唱大会にも出場したが、歌手になろうとはも思っていなかった。転機が来たのは高校時代だった。病気入院中の父親を励ますため台湾のテレビ局台湾電視主催の勝ち抜き番組「五燈獎」に挑戦した。順調に勝ち進んだが、グランドチャンピオン目前にして風邪を引き、本番で歌詞を忘れ敗退。失意のためその後半年間、彼女は歌を歌わなかった。そんな彼女に病床中の父親が言った。「あの(テレビに出ている)人たちよりお前の方が歌が上手なのに、どうしてトロフィーを持って帰ってこないんだ?」当時父親の容態は相当悪化していた。彼女はもう一度「五燈奨」に挑戦する。毎週台東から台北に通い"五渡五關"と呼ばれる25人勝ち抜きを果した。しかし、手にしたトロフィーを渡すはずだった父親はその数日前に他界していたという。彼女はそれを父の墓前に供えた。その後「五燈奨」に優勝はしたもののなかなか歌手デビューの話はこなかった彼女は、台北に上京し姉の営む日本料理店を手伝いながら、従兄弟のバンドで歌い始める。そしてその歌声が評判を呼びフォワードミュージック(豊華唱片)にスカウトされる。当時はまだ原住民族出身のPOPS歌手は珍しかったのだが、レコード会社の先輩歌手である張雨生に目をかけられ、張雨生のアルバムのデュエット曲『最愛的人傷我最深』でデビューを果たす。そして1996年12月、自身のソロアルバム『姐妹』を発表。収録曲の『原來[イ尓]什麼都不要』とピヌユマヤン民謡のメロディーを取り入れた『姐妹』が大ヒットし、デビューアルバムにして台湾IFPIチャート史上初の9週連続売上げチャート第一位の記録をつくる。そして、台湾だけで累計売上げは100万枚を突破。1997年6月に発表した2ndアルバム『BADBOY』も9週連続売上げチャート第一位を記録、売上も100万枚を越え、台湾のみならず香港・シンガポール・大陸を席捲。デビュー半年で台湾音楽界のトップスターとなった。しかし1997年11月12日、プロデューサーであり、友であり恩師でもある張雨生が交通事故で他界。その悲しみを乗り越え、デビューしてわずか1年余りで高雄・台北のスタジアムコンサートを行い35000人を動員、台湾コンサート史上最高の動員記録を作る。1999年には台湾4ケ所を皮切りに、ワールドツアーを敢行。台北では5万人を集め、当時単独コンサートが難しかった中国大陸でも、6万人を動員した首都北京の工人体育場から、広州・上海・昆明までコンサートを行っている。デビューして短期間で華人音楽界のトップに駆け上がった彼女、今や華人女性歌手のトップのひとりである。("A-Mei-Project"より抜粋) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年11月15日 11時43分45秒
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