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カテゴリ:感じたこと・知ったこと
ちょっと書いてみたくなったので、思いつくままに書いてみます。
中学校2年の秋に息子が急に学校に行けなくなってからずっと、私の頭の中にある 思いです。それは大きくなったり小さくなったりしながら、今も消えることなく続いて います。。。 それまではほとんど考えていなかったことです。 子どもも自分も周りの人も、学校は「当然行くもの」と認識していました。行くのが 当たり前だったから、学校へ行かないという選択が考えられなかったんですね。 不登校という言葉は知っていて、どんなものかもわかっていると思っていたのだけど (後でそれは知っているつもりであって、本当のことは全くわかっていなかったと感じ ましたが~)、それが実際に自分の身にふりかかるとは思いもよらないことでした。 でも息子が不登校になって、そのことを考えざるを得なくなりました。不登校の子の親 だから。こんなにも自分の中に「学校へ行かなければならない」という気持ちがあった のかということに気づきましたから。そして子どもは学校へどうしても行けないから。 「学校って何なの?どうしても行かないといけないの?そうしないと本当に困るの?」 って。。。考えました。自分なりに一生懸命考えました。 混乱期には無理に学校へ行かせようともしていました。今はその認識は変わりましたが 「学校へ行かなければならない」という自分の認識は変わりましたが(長くかかりまし たけど。。。)考えても考えても結論は出ませんでした。 一番大事なことは子どもの気持ちだからです。子どもにとってどうかということだから 子どもがどう思っているかだから。でも子どもも自分の口ではなかなか説明出来ないの でしょうね~混乱期には特に。 当時の息子のあれこれを見ていると、理屈ではなくて本能で学校を避けているかのよう でした。私が見る限りではですが、まるでそこに行くと自分が自分でなくなると思って いるかのようでした。自分のためにそうしているようでした。 だからそれは本当に一人一人の子どもの気持ちをみていかないといけないことで、簡単 に「こう」と言えるようなものではないと感じます。 ただ学校へ行くことによって体験できる色々な経験の数は、減るだろうなあって思い ました。うちの場合は特に、外へ出ることがほとんどなかったですし。 それによってどんなことが起こってくるかはわかりませんが、友達の数や先生を含めて 他の大人との出会いも減るかもしれません(いい出会いばかりとは限りませんが~) 行きたくないのに無理して行くところではないと思いました。 そんなことをしたらストレスを感じて、勉強どころじゃないですしね。 息子はまず体に出て、そのあとから言葉による吐き出しがありました。 学校へ行かなことによって本人が将来的に不利になったり損得というところでは、損を することが多いのかもしれませんが。。。それも本人次第かなとも思います。 もともとあまり競争意識がない子で(それも私の思い込みかもしれませんが)人にとっ てよいことが、同じように本人にとってよいかは疑問なのです。 自分がやる気になれば道はあるだろうし後から色々な勉強も出来るだろうし、何事も遅 いということはないんですよね。何歳になろうとも。 で、最初の題名のところに戻ります。「学校って何だろう」って。 同じような考え方(大まかにという意味で)の人が集うところで、その時だけ一緒の 時間を共有する空間。それは一時的なものでずっと続くものではない。 それを選ぶのは本人。とは言っても、私のようになんとなくそうなっていった人も多い のではないでしょうか。そんな空気に気がついた。ある意味すごく敏感な子たちなの ですよね。 あくまでも主体は本人(子ども)であって、学校はただの入れ物に過ぎない。 だから学校へ行くのも行かないのも学校が必要かどうかも、親や先生が決めることでは なくて、子どもが決めることなんですよね。 そこが自分にとって合わない場所であるならば、避けるもありなんですよね。それは 本当にそう思います。今はそんなところにいますね。先で変わるかもしれませんが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.02.05 21:00:38
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